D級京都観光案内 17 三条通り歩きつまみ食い2 三条大橋から東へ |
三条大橋は東海道53次の起点(終点)である。三条通が歴史的に重要な位置を占めたのは当然である。三条通やその近辺には歴史のにおいが一杯だ。三条大橋西詰南側に弥次さん喜多さん像がある。十辺舎一九の「東海道中膝栗毛」の主人公弥次喜多である。 弥次さん喜多さんはもう昔から漫画でも読み物でも映画でも何度も何度も見てきたものだから「東海道中膝栗毛」は暗記するぐらい覚えている積りになっている。日本橋を出発して東海道を面白おかしく旅をして、京の三条大橋にゴールしたのだろ、三条大橋に弥次喜多像があるのは当然だ、とそう思ってしまう。 ところが今回岩波文庫「東海道中膝栗毛」を読んでみるとちょっと違うのだ。確かに日本橋を出発して東海道を面白おかしく上って行く、確かにその通りだ。でも目的地は京ではないお伊勢さんなのだ。桑名から東海道を離れて伊勢に向かい無事伊勢参宮をして大団円、のはずが、大好評で増刷増刷、急遽、京大坂にも旅程を延ばす羽目に陥ったのだ。弥次喜多の自由意志ではなく版元の強い意向に作者十辺舎一九が迎合したのだ。 京へ上るのも一筋縄ではいかなかった。伊勢から大和路を回り、奈良街道を通り宇治を経て伏見にたどり着き、もう京はそこまでというところでどういうわけか二人は船着き場の三十石舟の船頭の誘いに乗って「京の前にまず大坂に行ってみようか」と大坂行きの下り舟に乗ってしまうのである。その舟の中でも当然弥次喜多の大騒ぎがあり、枚方を過ぎたあたりで大雨に遭い舟という舟が一旦岸で避難するうちその間に闇に乗じてトイレに行こうと一旦岸に上がった二人が慌てて舟に戻ってみるとなんとそれは上り舟で着いたところはもとの伏見だったのだ。 そこからやむなく伏見街道を上り、いろいろ珍道中がありながらたどり着くのが三條小橋あたりの旅籠だとなっている。ここに近い三条大橋西詰に平成6年弥次喜多の銅像が建てられたのだ。 この弥次喜多像から少し南に下がったところに瑞泉寺はある。豊臣秀吉は関白になり、聚楽第をつくり、京都の町の大都市区画整理事業を行い、お土居を張り巡らして都を守り、自分に子供がいないものだから甥の秀次を養子にし、関白職を譲り、聚楽第に住まわせ、自分は伏見城に隠居した。ところがなんと淀君が秀頼を生んでくれたのである。跡継ぎは秀頼にしたい、しかし養子の秀次が邪魔である。秀次に難癖をつけ謀反の疑いを着せ、秀次を高野山で自害に追い込む。秀次の妻子39名は三条河原で公開処刑され、亡骸は河原端に埋められそこは畜生塚と名付けられた。室町時代までなら生霊の祟りを恐れありえない話だ。戦国時代という勝ったものが正義だという時代を経て、敗者はただただ抹殺された。祟りを恐れるのではなくその一族の報復を恐れて根絶やしにすることだけを考えたのだ。武士には敗者を弔うという思想はなくなったようだ。 角倉了以は高瀬川を開削する際、町人であったがゆえに秀次一族を弔おうと思うことができた。そのために建てた寺がこの瑞泉寺である。境内は広くない、御朱印ももらえない。ただずらっと並んだ墓石を眺めると公開処刑の恐ろしさをいやが上でも思い知らされる。その横には菊の紋を削られた鬼瓦が展示されるが、寵愛した養子を手のひらを返すように叩きのめそうとする秀吉の心の醜さが窺われて愕然となる。ただ秀吉に潜む心性は私たちも共有しているに違いないから慄然とする。 瑞泉寺は高瀬川のすぐ東にあるが、その高瀬川の三条通にかかる橋が三条小橋だ。三条小橋の北東詰に佐久間象山先生・大村益次郎先生遭難の碑がある。暗殺されたのはともに幕末動乱の時期である。さらに木屋町通りを少し北に上がった東側に武市瑞山先生寓居之跡の石碑がある。そう「月さま雨が」の月さまのモデルの武市瑞山である。 三条小橋から三条通を西に少し行った北側に旅籠茶屋池田屋があり、その前には池田屋騒動跡なる石碑がある。言わずと知れた近藤勇隊長率いる新選組が尊王攘夷のクーデターを計画する長州藩士たちの集まる池田屋を襲撃した事件である。さらに三条通から一筋南の通りの北側には酢屋がある。家の前には坂本龍馬寓居の跡の石碑がある。酢屋は享保6年から続く材木商で今もその商いをしているという。幕末坂本龍馬が海援隊京都本部を置いていたところであり、2階に「ギャラリー 龍馬」があり龍馬と酢屋の歴史が見ることができる。 なお坂本竜馬が暗殺されたのは近江屋であり、これは河原町通りを三条から2筋ほど下がった西側に坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地の碑がある所にあったのだ。。このあたりは勤皇の志士たちの寓居や藩邸がそこここにあるので幕末の歴史ポイントは次から次に出てくるのだ。 さあ三条大橋から東に行こう。高山彦九郎像があるこれはスルーだ。かつて京阪電車が地上線であり、三条駅がその終点であったころは、渋谷の忠犬ハチ公像と同じく、特に若い恋人たちの待ち合わせ場所だったが、今はその役割は終えているようだ。 東に少し行くと通りの北に気になる店がある。「辻留」である。二代目主人辻嘉一は日本料理研究家としてつとに有名であり、ぜひ食べてみたいが、いかんせん京都店は出張料理しかしないから店には食べさせてもらえる空間はない。宝ヶ池プリンスホテルの日本庭園内にある茶寮で食べさせてもらえるらしい。我々にはほとんど無理ということらしい。 もう一筋東に行き、南に下がると大将軍神社のちょっとした森が見え、その正門にでる。桓武天皇が平安京を造営した際、大内裏の鎮護のため四方四隅に祀られた大将軍神社のうち東南隅の一つであり、平安京の東の要地の三条口にあり、邪霊の侵入を防ぐために大将軍社は建てられたとある。宮司は留守で御朱印はもらえなかったが。 さらに東に行くと東大路通の広い交差点を越えて一筋目に古川町通に来る。「東の錦」「京の東の台所」と言われた古川町商店街がここから南につながる。昭和の香り漂うレトロな商店街である。私が初めてここに来たのは平成24年9月22日土曜日で秋分の日だった。日記を読み返すと、信貴山農業公園の野菜類を買いに行くことにして高速に入ろうとすると近畿道事故渋滞の情報が流れ、急遽京都に目的地を変えこの商店街に来たとある。祝日でもありほとんどの店が閉まっていたのだが、ハモとグジの焼き物をする老夫婦の店があり、その両方をゲットしたのがこの商店街が好きになったきっかけである。 時の流れは残酷である。たった3年しかたっていないのにその老夫婦は店を閉めてしまっている。仕方なく近くのうなぎ屋でうなぎを買う、これも確かにうまいのだが、私はやっぱりあのおじいさんが焼き、おばあさんが勧めてくれるグジの焼いたのが食べたいのだ。あのおばあさんの声も聞きたいのだ。でもそれはかなわぬことなのだ。 そうは言うものの、ここは昭和のぬくもりのある商店街で、買い物以上の何かをゲットすることができるいいところだ。 この商店街から三条通を横断して北に行くと古川町通は広くなり、角に豆腐屋があり隣にうどん屋がある。お持ち帰りの鍋焼きうどんは庶民の味でうれしい。 再び三条通を東に行き、地下鉄東西線東山駅の昇降口を過ぎ、白川にかかる橋の手前の小路を北に進む。右手すぐに祇園饅頭の工場兼直売所がある。南座西にある店にここで作ったものを出荷しているのだ。名物のおしんこは白、にっき(肉桂)、抹茶の3種ある。6月の京都と言えば三角形の水無月(みなつき)も外せない。その他いろいろあって楽しい。 となりの店がソバの桝富。間口が狭く、中の椅子席も狭いが、上に上がった座敷はもっと狭かったりする。でも人気の店で、特に関東から来る人には人気らしく、お昼時は表の小路で立って待っていないといけない。鴨鍋も食べられるようだが、私が好きなのは鴨せいろ。というよりこの店で鴨せいろがうまいものだと教えられて、それ以来この店では決まって鴨せいろを食べ、ほかのそば屋に入ってもメニューに鴨せいろがあればだいたいそれを注文することになってしまったぐらいだ。 そばを食べたら、店を出て、小路をさらに北に行く。突き当たったところで東に折れ、白川を渡ったところに並河靖之七宝美術館がある。並河靖之は金銀線を用いた有線七宝の技法により世界各国の博覧会で表彰された明治期の日本を代表する七宝家だ。靖之の自宅兼工房がこの美術館になり、所蔵作品は130点にのぼるという。 ここからもう一度三条通に戻ろう。白川の東岸沿いに道があるからそこを南に下がる。100mほど行ったところに二筋目の路地がありその向こう側に和菓子「餅寅」がある。ここの名物は「光秀饅頭」であり茶色の皮に桔梗の紋がうってある。桔梗の紋の光秀とは、そうあの本能寺の変の明智光秀なのである。 店の横の路地を東に少し行ったところに小さな祠があり、「明智光秀の塚」と駒札がある。「天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れ坂本城に逃れる途中、小栗栖の竹やぶで農民に襲われ自刃、家来が首を切り落とし、知恩院の近くまで来たが夜が明けたために当地で首を埋めたという。」この祠を守ってきたのが「餅寅」の主人とその奥さんであり、だからこと光秀饅頭がここの名物であり続けたのだ。祇園饅頭とはまた違う味わいの豆もち、栗もち、よもぎ大福も売られている。 ネットを見るとこの「餅寅」さんと明智光秀の首塚を熱く語る人がいる。光秀の末裔で「本能寺の変 431年目の真実」を著した明智憲三郎さんである。明智憲三郎は慶応大学工学部出身で大手電機メーカーの情報システムにかかわってきた理系人間であるが、末裔の立場から定説とされる光秀に着せられた濡れ衣を晴らすべく、関係者の日記などの歴史資料の徹底的整合性を貫きながら解読していくことにより本能寺の変の真実に迫ろうとしたのである。なかなかの力作でしかも説得力がある。興味のある方は是非一読されることをお勧めする。 言い忘れたが、私は白川三条に光秀の首塚と光秀饅頭を売る店があることを知った時は大いに驚き、感激した。ある本を読んでいたからだがその本というのは明智憲三郎さんの本ではない。能勢の作家家村耕さんの「光秀奔る」という小説である。 旧東能勢村の中心地黄城跡である能勢町立東中学校前に古びた古民家の酒屋「嶋田酒店」がある。すぐ先の倉垣にある秋鹿酒造の酒はもちろんおいているが、京北町周山の羽田酒造が嶋田酒店用に作った「摂丹の霧」「能勢の四季」はここで見つけた私の大好きな日本酒である。この酒屋の主人嶋田さんこそ作家家村耕である。平成21年4月から1年間家村耕で京都新聞に連載された「光秀をたどる」に沿ってあちこち光秀の影を追って楽しんできていた。多岐にわたる光秀ゆかりの地に接することができていた。 その中には三条白川の光秀の首塚も「餅寅」の主人夫婦も出ていなかった。明智光秀という糸を頼りにD級京都観光はまだまだ続くと決意を新たにした私なのである。 |
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