D級京都観光案内 49 泉涌寺、新熊野神社
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泉涌寺七福神巡りを続けよう。
今熊野観音寺に行く道を少し戻ったところに来迎院への道標はある。その指し示す通り、左側に敷地の境界である壁や塀があり、右は谷側に下がり笹が生い茂る道を行くと来迎院の門にやってくる。「布袋尊」と「大石内蔵助ゆかりの遺跡 含翠茶庭」の札がかかっている。
含翠亭は大石内蔵助作の池泉回遊式のこぢんまりした庭で、内蔵助建立の茶室含翠軒があり、内蔵助筆「含翠」の額がかかっている。この茶室で討ち入りの密議が行われたというのを聞くとちょっとドキドキする。受付がある庫裏から上がって抹茶の接待も受けることができる。室内を眺めながら、また庭を愛でながら茶を飲むというゆったりとした時の流れを楽しむことができる。
荒神堂には三宝大荒神坐像が安置されている。荒神堂の上り口のところには弘法大師が独鈷で突くと水が湧きだしたと伝わる「独鈷水」という霊泉がある。布袋さんの土人形が一杯置かれている。ここは「布袋尊」の札所である。
来迎院から次の雲龍院へは泉涌寺の境内を横切るように行くことになる。
雲龍院は泉涌寺別院とも言われるように塔頭の中でも別格本山という高い格を持っている。後円融天皇が妙法発願されたことから写経道場として受け継がれ、現在も写経体験ができる厳かな場所なのだ。
拝観入口は書院にあるが、指示された順路に従って、書院の部屋にはすぐ入らず廊下をぐるっと回って本堂の龍華殿にそっと入る。というのも、先ほど説明した写経はこの本堂で行われているのだ。静かに写経している人たちを邪魔しないように、本尊の薬師如来三尊像の前まで行き拝観する。平安時代作の薬師如来坐像を中心に、日光・月光両菩薩が両脇に安置されている。拝観すればまたそっと本堂をぐるっと回り、霊明殿を通り、書院の各部屋を見る。大輪の間では大石内蔵助の「龍淵」の書がかかっている。次の蓮華の間では、雪見障子の窓(障子の下が正方形のガラス窓になっている)4枚を覗くと、ツバキ・灯籠・紅葉・松と違った絵を見ることができる。悟りの間の丸い「悟りの窓」から日々変わる景色を楽しむ。「悟り」を感得しないといけないと思うと結構苦しい。戻って庫裏(台所)に「走り大黒天」はある。俵の上に乗ったゆったりとした大黒様とは異なり、大きな袋を背負ってわらじ履きで左足を一歩だし、怖い形相で、お前を助けに飛んで行ってやるぞという風である。
七福神巡りでは当然大黒天を祀っている。そして墓地には、サスペンスの女王、京都をこよなく愛した作家・山村美紗さんのお墓がある。そう思うと雲龍院がますますミステリアスに思えてくる。
七福神巡りではこの次は泉涌寺境内に戻り大門すぐ近くの番外・楊貴妃観音堂に参拝することになる。その次は大門を出て、泉涌寺道を元に戻る。東山泉小中学校に戻る手前に左に入る道がある。そこをずんずん進めば悲田院にやってくる。
悲田院はどんなお寺だろうとワクワクしながらやってきた。というのも悲田院は奈良時代、光明皇后によって建てられた貧民救済の施設だとおぼろげに理解していたのである。それがどうして泉涌寺の塔頭としてあるのか、医者のはしくれとしてとても興味があったのだ。ただ私が行ったのは特に縁日でもない普通の日だったので、本尊の阿弥陀如来も毘沙門堂の毘沙門天像も参拝させてもらうこともできず、ただ見晴らしのいい境内から京都市内の景色を眺めるばかりだった。
京都府医師会編になる「京都の医学史」によると、悲田院はもともと唐において老廃者を救護する目的で仏教徒によって造られた。わが国では奈良時代に光明皇后が興福寺内に施薬院(せやくいん/やくいん)・悲田院2院を建立したことに始まる。平安京にも継承され、東西2カ所に悲田院が設けられ、病人や孤児を収容した。そのうち一方には施設内に仏殿を造り悲田寺と称したが、兵火にかかり、泉涌寺内に移り寺名を残しているとある。
施薬院が一般庶民の外来診療の走りであるように、悲田院は社会福祉の先駆けだったのである。残念ながらここ悲田院にはその面影をしのぶことはできなかったが、七福神巡りでは毘沙門天のお札がもらえる。それはそれでいいことなのだ。
泉涌寺道まで戻り、下がっていった左手に(戒光寺の向かいあたりになるか)7番目最後の札所、法音院はある。ご本尊は不空羂索(ふくうけんさく)観音であり、一面三眼八臂の姿で、羂索(投げ縄)であらゆる人を救うとされる。寿老人を祀っている。この寺では七福神巡りとは関係なく写仏体験ができる。写仏は観世音菩薩や不動明王など数種の下絵が用意されていて、下絵をなぞって写仏したものは内陣の仏前に奉納し、仏さまをすぐ間近で拝むことができる。写仏体験には予約が必要である。
さあおなかもすいてきたので、ここらで何かを食べよう。泉涌寺道を更に下って、東大路通りに戻ると、道の両側に今熊野商店街はある。智積院の南から京都第一日赤に至る東大路通の両側にある。東大路通という広い通りに隔てられているので、せっかく道の両側に商店は並ぶのだが、賑わいという点では勢いを削がれている。でも食べるところは結構ある。
まずおすすめは鱧料理の魚市である。店主は鱧のレントゲン写真を店内に飾ってしまうほど無類の鱧好きで、それでいて瀬戸内産の鱧をリーゾナブルなとにかく安くておいしいをモットーにするいい人なのだ。鱧料理専門店というとちょっと格式ばったお店かと思いきや、店頭にはお寿司やお惣菜を並べる気楽な店で、中に入ると4人掛けの椅子席3つと、机が二つの靴を脱いで上がる席がある。
おすすめは今熊野弁当2,100円、贅沢に鱧落としをつけて3,150円である。これには鱧の子煮合わせがついているのがうれしい。鱧の照り焼きを細かく刻んで、御飯の上に載せる鱧丼もおすすめ。鱧の特別会席は鱧のお造り・浮袋煮、鱧焼、鱧の子煮・鱧のから揚・骨せんべいなどが出るが、これは10,500円もするのでまだ食べたことはない。
魚市と反対側の通りにあるゲベッケンは手作りパン屋さんで、基本の食パンのほか、だし巻パンが人気。なんじゃこりゃあと思いますがこのパンでよくテレビなどで紹介されている。本店は伏見深草にある。
食べるところはほかにもいろいろあるが、趣向を変えて、今熊野の交差点を東の山側に上がっていこう。5軒目ぐらいに明治42年創業、そば菓子処「澤正」がある。「蕎麦ぼうろ」の登録商標を持っているという。蕎麦ぼうろはてっきり河道屋が始めたお菓子だと思っていた。その証拠に河道屋にはいろいろな分家が一杯あるから。お菓子は作っていないが河道屋養老のソバは私が一番気に入っている蕎麦だもの。
ある年の12月30日、このあたりのことは何も知らなかったとき、ソバを食べさせてくれる店はないかとふらっと入ったのがこの店だ。蕎麦ぼうろを製作中で、そば短冊という四角い板せんべいを出来立てほやほやですと分けてもらった。そりゃあ美味しかったなあ。
そこでもう少し山側に行ったところに「そば茶寮 澤正」というのがあると教えてもらった。そこから予約を入れてもらうと、単品のソバしかできないがそれでもいいかということで、道に迷いながらもそこに行った。
昭和初期に建てられた迎賓館だったところというから、そこまで行く道の様子、玄関のたたずまい、室内の調度品、部屋から見える外の景色、どれをとっても申し分ない。12月30日の単品しか頼めない日で本当によかった。今ネットでメニューを見てみると昼も夜もえらく高いコース料理しかないようだから。
菓子処澤正からそば茶寮澤正に行く途中に剣神社はある。平安遷都の際、王城鎮護のため都の巽に剣を埋めたのが始まりという謂れがある。現在は癇虫封じ・吃音平癒などの子供の守り神様として信仰を集めている。
東大路通、今熊野の交差点を少し下がった西側に新熊野(いまくまの)神社はある。熊野神社、若王子熊野神社とともに京都三熊野社と言われる。平安時代末期、熊野詣は盛んで、後白河上皇は34度に及んでいる。後白河上皇はここから少し北にある法住寺を中心に院政御所・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を営んだ。後白河上皇は平清盛に命じ、紀州の熊野権現本宮の祭神を勧請して、法住寺殿の鎮守とした。それが新熊野神社の起こりである。紀州の熊野神社に対して、新しい熊野神社なので、「いまくまの」と呼んだのである。地名のほうは「今熊野」と表記される。
同様に近江の日吉大社を法住寺殿の鎮守として勧請したのが、京都女子大に至る女坂にある新日吉神社(いまひえじんじゃ)で、「新」と書いて「いま」と読ませている。
新熊野神社の境内は予想外に狭い。本殿は熊野造りという珍しい社殿の建築様式で、それが往時の華やかさを物語っている。重文に指定されている。神木は梛の木(なぎのき)で、本殿の左右にある。
東大路通側にあり、神社の目印にもなる大樟は樹齢900年と言われる全周6mの大クスノキで、紀州熊野より運ばれた土に後白河上皇が自ら植えたと伝えられ、京都市重文に指定されている。熊野の神々が降り立つことから、「影向(ようごう)の大樟」と言われ、樟龍弁財天(弁財天の化身とされる大樟の神様)が祀られている。「大樟さんのさすり木」というのも置かれていて、これに触り撫でれば「健康長寿」「病魔退散」、特に「お腹の神様」として御利益があると庶民に親しまれている。
ご神鳥はどの熊野神社でも共通の八咫烏である。ただその姿形は各神社で微妙に違っている。八咫とは親指と人差し指を広げた長さ(約18cm)の8つ分ということで、羽を広げると1m50㎝くらいのカラスということになる。3本足かどうかは神社によって違うようだ。まあものすごく大きい烏には違いない。
当時猿楽結崎座の観阿弥、世阿弥親子が当社で「今熊野勧進猿楽」を演じていたところ、見物に来ていた足利義満がその至芸にいたく感動し、将軍お抱えの芸能集団である同朋衆(どうぼうしゅう)に取り立てた。義満は特に世阿弥をかわいがり、その後ろ盾のもと、世阿弥は観世流能楽を完成させていくことになる。当社は能楽大成機縁の地と言われるゆえんである。
科学の偉大な発見・発明も凡人なら見落としてしまう些細な事象を、徹底的に追求し、解明しあるいは新しいものを生み出す並外れた努力があったことが知られている。芸能の世界もそうなのだ。少年の美しさゆえに引き立てられたそのチャンスを、能楽という一大芸能に大成させた世阿弥の才能と努力は感嘆すべきだ。そのきっかけとなる舞台がここだと見回すとちょっと手狭なことが気になるが、室町時代の当社の境内は広大で、現在の東福寺辺りにまで広がる苑池の畔がその演舞場だっただろうという説明を聞くと、遠くその時の光景が浮かんでくるそんな気がするのである。
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