D級京都観光案内 48 泉涌寺、新熊野神社
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東大路通を七条からさらに南に行くと、道は曲がり始め、左手に京都第一赤十字病院の立派な建物が見えてくる。道が曲がり始める辺りに泉涌寺道の交差点があり、東に行く道が泉涌寺道であり、その名の通り泉涌寺に至る。
今からほぼ60年前、中学2年生の私は先生に連れられてこの道を登っていた。総門をくぐってしばらく行った右手にある月輪中学校で開かれる京都市中学弁論大会に出場するためだった。その時私自身もそして先生も、予想もしていなかった第2位入賞という初めての受賞体験のある思い出の場所である。ただこの入賞原稿はまず父にかなりを書いてもらいさらには先生に大会用に手直しをしてもらったものだから、2位入賞といってもただただ気恥ずかしい思い出しかないのだが。月輪中学校は現在3つの小学校と統合され東山泉小中学校になっているらしい。
平成8年2月、京大物理時代の恩師寺本英先生の告別式は泉涌寺の塔頭で執り行われた。前日降った雪の残る寒い寒い日だった。学問的には不肖の弟子をそのまま地で行き、医者に転身して先生の下さった暖かい指導に応えましたよと報告できるまでにまだ道遠しの自分自身を振り返ると、先生にお別れの挨拶をするには寒い寒い朝だった。
それから20年以上経ち、一度も先生のお墓参りをしていないことに気が付いた。お葬式のあったお寺の墓地に先生のお墓はあるに違いない。泉涌寺の拝観は、先生のお墓へもお参りすることができるだろう。
泉涌寺は皇室とのかかわりが深く御寺と呼ばれる。鎌倉時代の四条天皇から後水尾天皇を含む江戸時代までの天皇の25の陵墓が月輪陵・後月輪陵として寺内にある。天皇のお墓が仏式の石造九重塔であることを初めて知ってちょっと驚いてしまう。
鎌倉時代、この地にあった仙遊寺が俊芿(しゅんじょう)律師に寄進され、境内に新しい泉が湧き出たことに因み泉涌寺と名を改め、律宗の寺院として開山した。俊芿律師が寄付集めのために書いた文書「泉涌寺勧縁疏」は国宝である。伽藍は応仁の乱で一時廃墟となったが、すぐに皇室より再興の指示がおり、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と時の権力者は造営工事をし、土地を寄進し、当寺を大寺院にしていった。現在は真言宗泉涌寺派の総本山である。
さあ泉涌寺の中に入ろう。泉涌寺道は東山泉小中学校(東学舎)の前から緩やかに右に曲がり、一番高くなったところが広場になっている。ここに車を停めることができる。左手に大門がある。京都御所の門を移築した四脚門である。西を向いている。
大門をくぐるとまるでスキー場のゲレンデかと思うばかりに砂利敷きの参道が仏殿に向かって見下ろせる。仏殿の背後には舎利殿、その後ろに御座所・霊明殿がある。
本堂である仏殿には、運慶作と伝わる、阿弥陀、釈迦、弥勒の三尊仏が安置され、過去、現在、未来の三世にわたる人々の平安と幸福を担保している。鏡天井には壮大な蟠龍が、背壁には飛天が、裏堂壁には白衣観音像が描かれているがいずれも狩野探幽作という。
仏殿横には清少納言の百人一首の「夜をこめて鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の関は許さじ」の歌碑がある。清少納言が仕えた中宮定子が24歳の若さでなくなったあとは宮仕えを辞めこのあたりに隠棲したという。清少納言35歳の時である。ちなみに定子の墓はこの近くの鳥辺野陵にある。
仏殿の後ろに舎利殿がある。仏牙舎利(釈迦の歯)が奉安されており、その両側には韋駄天像と月蓋長者像が並ぶ。釈迦の荼毘所から速疾羅刹(そくしつらせつ)に奪われた仏牙舎利を韋駄天が取り戻したことから、韋駄天が仏牙舎利の守護神として安置されているのだ。速疾といういかにも足の速そうな神に追いついたのだから韋駄天がすごいスピードランナーだったことがよくわかる。
本年(平成31年)は陛下在位30年を記念して(NHK大河ドラマ「いだてん」にも便乗して)3月17日(日)まで韋駄天像が特別公開される。さらに今まで公開されたことのなかった舎利殿裏堂に描かれた韋駄天図も公開される。
舎利殿天井には狩野山雪による龍が描かれており、床のある地点に立ち手を鳴らすと大きく反響する。よって鳴き龍と呼ばれる。ちなみに相国寺法堂の狩野光信画の蟠龍も鳴き龍と言われている。
舎利殿の背後には御座所がある。天皇はじめ皇族が御陵参詣の時のお休み所として現在も使われている。明治天皇が御所の皇后宮のお里御殿をここに移されたもので、宮中生活をちょっとのぞき見することができるのだ。
御座所から廊下で続いて霊明殿がある。歴代天皇皇后の位牌が奉安されているが、非公開である。
元に戻り仏殿の南側には水屋形がある。寺名の起源となった泉が今も湧いているという。屋形は仏殿と同じ寛永期の建物だ。
さらに大門まで戻る手前を右に行くと(最初、大門をくぐったらすぐ左手に行くと)宝物館である心照殿があり、その奥に楊貴妃観音堂がある。宋から請来された聖観音像が安置されている。その姿形の美しさから、玄宗皇帝が楊貴妃の冥福を祈って彫らせたものだと伝承されるようになり、江戸時代から楊貴妃観音と呼ばれるようになったという。宋から持ち帰ったというのが1230年。玄宗皇帝は756年には死んでいる。500年前の由緒ある仏像が日本に持ち帰れるかなあとちょっと懐疑的になるが。この建物は織田信長の寄進による。
泉涌寺の山内寺院・塔頭は9か寺ある。このどれもこれも凄いのだ。各寺院を案内していこうと思うのだが、毎年1月の成人の日に行われる泉山七福神巡りに沿って参拝して行こう。
総門の手前北側に即成院(そくじょういん)はある。伏見長者と称された橘俊綱の創建で、もともと伏見大亀谷にあったが明治35年に当地に移ってきた。橘俊綱は関白藤原頼通の次男として生まれたが、頼通の正室に疎まれ、橘家の養子になったという。政権闘争に敗れた結果かお蔭か、文化人、作庭家として名を成し、日本最古の庭園書である「作庭記」を表し、巨万の富を築いたのだ。父が宇治平等院を作りこの世に極楽浄土を実現させたように、即成院を造り、その中に阿弥陀如来像を中心に25菩薩像を配置する、立体的極楽浄土を表現したのである。
500円払えばいつでも特別拝観ができ、内陣まで入って阿弥陀如来像を中心とした25菩薩像を目の当たりにすることができ、圧倒され感動する。10月第3日曜日には、二十五菩薩お練り供養法要が行われる。極楽浄土に衆生を導くことを具現化する行事で、境内に設置された橋の上を金襴の菩薩の装束に身を包んだ信徒が練り歩く。
当寺の奥にはあの屋島の戦いで扇の的を射たことで有名な那須与一の墓がある。合戦の前栃木県から京都に向かう道中で病にかかり、伏見で療養し、即成院の阿弥陀如来に病気回復を祈った結果、体調万全となり、合戦での見事な成果を上げることができたという。合格祈願の受験生の参拝が後を絶たない。
泉山七福神巡りではここ即成院で福笹を貰い、順々に寺院をめぐり縁起物をつけてもらう。即成院は福禄寿を祀っている。
次の塔頭は戒光寺である。丈六の阿弥陀如来立像(全高10mに及ぶ)がご本尊であり、運慶湛慶親子作と伝わる。融通弁財天もある。境内には新選組により暗殺された、伊東甲子太郎、藤堂平助ら御陵衛士4名の墓碑もある。墓参には申し込みが必要である。七福神巡りではもちろん弁財天である。
次は新善光寺である。後嵯峨天皇の勅命により、信州の善光寺の阿弥陀如来立像と同体の金銅阿弥陀像が鋳造され、ご本尊とされている。愛染明王も祀られ、七福神巡りの番外とされている。
ここにお参りし御朱印を貰っているとき、この寺のたたずまいが20数年前の寺本先生の葬儀のお寺であったように思えてきた。思い切って住職夫人と思しき人に尋ねてみると、「はい、先生の葬儀は、当院で執り行いました」と明確な答えが返ってきた。お墓参りをさせていただけますかと頼んでみると、お墓はここではないのです、先代住職が同時に生態学の研究者で、そのつながりで数理生態学のパイオニアである寺本先生の葬儀をさせていただいたけれど、お墓は別のお寺のようですというのが現住職夫人の説明だった。先生のお墓は分からなかったが、葬儀が行われた場所がここだと分かり、長年胸につっかえていたものが取れたようでほっとした。
でも先生のお墓はどこなのだろう。出身地の松江まで探しにいかないといけないのかと思っていたところ、つい先日、南禅寺天授庵に先生のお墓があることを友人から教えてもらえた。この3月にはこの友人とともに墓参に行く予定にしている。
新善光寺を出てすぐに今熊野観音寺に通じる脇道に入る。車でも通れる。赤い鳥居橋を過ぎたところに西国観音霊場第15番札所・今熊野観音寺はある。ご本尊は弘法大師空海が彫ったとされる十一面観音である。秘仏である。まったく同形の十一面観音がお前立としてある。脇仏は不動明王像と運慶作と伝わる毘沙門天像である。空海はこの地で熊野権現の化身である老翁から授けられた天照大神の御作の一寸八分の観音像を胎内仏としてこの観音を彫ったという。
まあなんとも神秘的な話である。なんとも稀有壮大な話である。天照大神が観音像を彫っていたというのもまず驚きだが、そんな貴重なものを熊野権現という神様はどうやって手に入れたが知らないが、わざわざ老翁に化けて空海に授けたというのだから、よほど空海は見込まれたのだろうなあ。
この観音の御利益の第一は頭痛封じである。すぐ近くの法住寺あたりに後白河上皇は法住寺殿を建て院政を行っていたが、長年激しい頭痛に悩まされていた。多分片頭痛・筋緊張性頭痛の混合型だったのだろうが、ストレスがかかるたびに頭痛に悩まされたのだろう。上皇がこの観音に頭痛平癒の祈願を続けていたところ、ある夜寝ている上皇の枕元に観音が現れ頭に向かって光明を差しかけてくれ、翌朝起きたらあら不思議長年苦しんだ頭痛が消えていたという。
大師堂の前には、ぼけ封じ観音が立っている。ご利益は当然ぼけ封じである。この頃はついついこの前で手を合わしてしまっている。本堂の右側の山上に平安様式の多宝塔がある。この医聖堂には古今医界に貢献した方々が祀られている。多宝塔の右には大きな石碑があり、医家先哲122名の名が刻まれている。左には日本医学の源流ともいうべき「医心方」の大きな顕彰碑がある。「医心方一千年の記念に」と記されている。
本堂より左手にある大講堂の前には元日本医師会長・武見太郎の銅像もある。医聖堂建立を発意したその人である。
七福神巡りでは恵比須伸を貰うことになる。次は布袋尊の来迎院に向かうことになるのだが、紙面のほうはもう一杯で、この続きは次号に回すことにする。
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