D級京都観光案内 47 節分会・祭いろいろ
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節分とはもともとは立春・立夏・立秋・立冬それぞれの前日を指す言葉であった。でも今では1年の始まりである立春の前日を意味するようになっている。京都ではいろいろな寺社で節分の催しが行われている。どこも同じように豆まきをして、はいおしまいと思っていたが大間違いである。季節の変わり目には邪気が出ると信じられ、その邪気を具体的に鬼の形に具体化して、邪気(鬼)を祓い、来年の幸せと願う儀式が節分会である。もともとは宮中の儀式であった。江戸時代の頃には民衆の間でも豆まきが広まったという。どの寺社もその寺社独特の節分行事を持っている。
京都検定公式テキストに写真で取り上げられている社寺を見て行こう。
まずは吉田神社の節分祭、前日2月2日に行われる「追儺(ついな)式」、これは「鬼やらい」とも言われる行事が有名である。平安時代宮中で行われた儀式にのっとり、室町時代から執り行われている。大舎人が黄金四つ目の仮面をかぶり(これが鬼かなと思ってしまうが、鬼に打ち勝つための怖い仮面にしているのだ)、盾と矛をもって「方相氏」に扮し、小童を多数従え登場する。神官(陰陽師)が祭文を読み上げているところに、赤鬼、青鬼、黄鬼が登場する。それぞれの鬼は怒り、悲しみ、苦悩を象徴すると説明がある。「泣いた青鬼」という浜田ひろすけの童話があったが、悲しみの象徴の青鬼が泣くのは必然だったのだ。
暴れる3匹の鬼たちを方相氏は盾と矛を用いて制圧し、追い払いにかかる。後ろから小童たちは声を上げながら方相氏の後ろに従う。豆こそまかないが「鬼は外と」鬼に扮したおじさんを追いかける子どもたちに通じるものがある。最後に殿上人が桃弓(桃には悪邪を祓う霊力がある)で葦矢を放ち儀式は終了する。
吉田神社は京大本部構内と吉田南(以前は教養部と言っていた)構内の間の東一条通を東につき切った吉田山のふもとにある。節分の2月2日、3日の両日には東一条通から本宮にかけて約800の露店が立ち並ぶ。
吉田神社は藤原山蔭が奈良の春日大社の4神を吉田山に勧請し、藤原氏の氏神、平安京の鎮守神としてまつったことに始まる。神の使いとして鹿がいる。室町時代、神官の吉田兼倶は全国の神々を合祀して大元宮を建立し、唯一神道を唱えた。大元宮は本宮からさらに山に登ったところにあり、本殿は八角形という珍しい形である。末社山蔭神社は包丁の神、料理飲食の祖神として藤原山蔭を祀っている。末社菓祖神社は果物の祖の橘を日本に持ち帰ったと伝えられる田道間守(たじまもり)と日本で初めて饅頭を作った宋から建仁寺に来た僧林浄因(りんじょういん)を祀っている。本宮から大元宮に行く途中に二つの末社はある。
廬山寺の節分会、追儺式鬼法楽は「D級京都観光案内43. 御所東、寺町通」にすでに書いている。再掲しておこう。「節分の鬼おどりで有名な追儺式『鬼の法楽』が行われる。踊り狂う赤鬼、青鬼、黒鬼が追儺師の法弓、そして蓬莱師、福娘によって撒かれる蓬莱豆及び福餅の威力に追われて鬼は門外へ逃げ去るという趣向だ。『鬼は外』の豆まきの原点と言われる儀式だ。」
北野天満宮では本殿で節分祭、その後神楽殿で追儺式が行われる。茂山千五郎社中による「北野追儺狂言」奉納、上七軒歌舞会による「日本舞踊」奉納後に豆まきが行なわれる。
大根焚きで有名な千本釈迦堂(大報恩寺)では、もう一つ有名なおかめ伝説にちなんで、おかめ節分会が催される。本堂建造の総責任者の宮大工棟梁の夫の危機を妻として支えた内助の功が美化伝説化されているお亀さんだから、福徳円満、家内繁盛の象徴でもある。
茂山社中による奉納狂言があり、この中でまず3匹の鬼たちが荒れ狂うのであるが、お亀さんが登場し鬼たちににっこり微笑みかけると鬼たちは腰砕けになり大人しくなる。それで富の象徴・打出の小槌をおかめさんに献納するのだ。、その後、紅白おかめ装束の男女が、福徳円満、お多福招来等の祈願を受けて練り歩き一年の厄除けをするのがここの節分会の見ものである。茂山社中、行者、上七軒の芸舞妓そしてその年の有名人が集まった人々に向けて豆撒きをするのである。
壬生寺の節分会では、壬生大念仏狂言の演目の「節分」が節分前日・当日に4回ずつ上演される。鬼が変装して打出の小槌を土産に女主人を誘惑しようとやってくるが、振る舞い酒に酔いつぶれてしまい正体がばれてしまい、女主人から豆を撒かれて追い払われるというストーリーである。大念仏狂言は宗教的教えを庶民に分かり易く教えることが趣旨であり、この演目では「甘い誘惑にのらず、マメ(豆)に働けば鬼のような災厄から逃れ、福が得られる」という教えが語られている。
壬生寺は四条大宮の西南にある律宗の大本山である。御所の西南の方向でもあり、裏鬼門に当たるので魔除けの行事である節分会も重要視された。本尊は地蔵菩薩、平安時代中期三井寺の快賢が建立し、鎌倉時代後期に融通念仏の祖とされる円覚上人が再興した。壬生大念仏狂言が行われるゆえんである。
節分の時、境内では素焼きの土鍋「炮烙」が売られ、人々はそれを購入し、氏名、願い事を墨書し奉納して1年の無事を祈願する。この炮烙は4月の大念仏狂言の第1番演目「炮烙割」の時に舞台の最前列に積み上げられ、最後に次々と突き落とされて3m下の地面で粉々になるのだ。粉々になると、書かれていた願い事は成就すると信仰されている。大念仏狂言は無言劇だけど、十分娯楽性のあるものだとよくわかる。
新選組は京都に来た当時、壬生に屯所があったので壬生浪士組と言われていた。最初市民や商家などに狼藉を働き、金品の強奪などをしていたころは「みぶろぅ」とさげすまれ、おそれられたようだ。私も「燃えよ剣」をテレビで見るまではこのイメージをずっと持っていたように思う。「燃えよ剣」では特に土方歳三と沖田総司が魅力的に描かれているものだから、「みぶろぅ」とのギャップに驚いたものだ。
壬生寺境内は浪士組の兵法調練場として使われた。新選組屯所跡の石碑が2カ所ある。阿弥陀堂の奥に壬生塚があり、近藤勇の銅像・遺髪塔、新選組隊士11人の墓、芹沢鴨、勘定方河合耆三郎の墓がある。河合耆三郎は会計上の不正を疑われ切腹させられたが、それが理不尽な理由だと裕福な商家の親が、壬生寺に立派な墓を作らせたという。近藤勇を始め組長クラス以上の隊士の墓はここにはない。
壬生寺正門前の坊城通を北に行くと京都鶴屋鶴寿庵という和菓子店がある。店前には「新選組屯所 八木邸公開中」の札が立ち、新選組遺跡の石碑が立つ。八木家は菓子舗もやり、店の脇から入る屋敷こそ、近藤勇たちが新選組の本拠とした場所であり、クーデターとして局長芹沢鴨を斬殺した奥座敷は残されていて、その時の刀傷が今も現存する。坂本龍馬が襲われたときの刀傷と称する伏見寺田屋のものは、怪しいとされるが、こちらの方はまがいもなく本物である。
坊城通を挟んだ向かいに旧前川邸はある。古道具屋「桝屋」を営みながら、攘夷派の情報活動と武器調達にあたっていた古高俊太郎が新選組に捕らえられ、土方歳三じきじきの拷問取調が行われたのがこの旧前川邸である。長州藩士らによる古高奪還作戦を協議すべく集まった池田屋の寄合に、新選組が踏み込んだ池田屋騒動に発展する。新選組は株を上げ、長州藩志士たちは御所焼き討ちというさらに過激な作戦に出ざるを得なくなった、歴史の転換点になる屋敷である。
金つばの幸福堂はこのあたりの交差点にある。新聞やテレビなどマスコミで有名になりすぎてしまった感があるが、路地裏のうまいお菓子屋であることには違いない。もちろん看板商品はきんつばである。
聖護院節分会は聖護院門跡で行われる。聖護院は修験道の寺、山伏の寺であるから、追儺式、豆撒きで山伏は登場する。追儺式は、赤、黄、青の3匹の鬼が暴れるのを、年男福女のまく豆により調伏し、最後には改心した鬼が一緒に豆をまく珍しい行事だ。そのあと山伏、鬼たちによる豆撒きが執り行われる。
聖護院の御本尊は不動明王である。御所が大火で焼きだされるたびに、光格天皇、孝明天皇の仮御所となった。光格天皇は役行者に「神変大菩薩」の諡号を贈られている。箕面瀧安寺の弁天堂境内にも神変大菩薩を祀るものが多くあるが、ここに由来しているのだ。
法螺貝餅は法螺貝の形をし、貝の吹き口はゴボウでできたお菓子だが、孝明天皇が避難先の当寺で食べたとされ、現在は年に一回節分に柏屋光貞で販売される。
聖護院は、京菓子の聖護院八ツ橋、京の伝統野菜の聖護院だいこん、聖護院かぶ、聖護院きゅうりの発祥の地とされている。すぐ近くには、本家西尾八ツ橋、聖護院八ツ橋総本店がほとんど向い合せにある。お食事処・甘味処 西尾八ッ橋の里は元東洋レーヨン役員河原林檉一郎氏の邸宅を使ったもので、そこで出される料理はうどんの単品もある、そんなに肩肘張らないもので安心だ。
聖護院門跡の東隣に筆頭塔頭・積善院はある。ご本尊は準提観音(珍しい。准胝観音ではない)で、不動明王も同時に祀られている。境内奥の方に「崇徳院地蔵」がある。これは「人喰い地蔵」と言われている。保元の乱で敗れた崇徳上皇は讃岐の国に流されその地で憤死した。その後京都には大火・悪疫流行・大地震と災いが続き、これは上皇の祟りと庶民は恐れ、上皇の霊を慰めるために石地蔵尊が祀られた。恐ろしい思い出が重なりストクインがヒトクイとなまり「人喰い地蔵」と呼ばれるようになったそうだ。2月23日には秘仏「五大力菩薩」が開帳され、かす汁の無料接待も行われる。
その向かいに須賀神社がある。節分祭では、境内に当日とその前日、烏帽子・水干姿に覆面をした懸想文売りが登場し、お守りとして「懸想文」が授与される。懸想文とは本来は恋文のことであり、文字が書けない庶民が覆面した貴族に代筆してもらったことに起源をもつ。貴族は小遣い稼ぎだから覆面して身元がばれないようにしていたのだ。懸想文を鏡台や箪笥に入れておくと、着物が増え、容姿も美しくなり、良縁をいただけると信仰されている。
須賀神社の祭神はスサノオノミコトとその妻クシイナダヒメノミコトである。古事記によると、スサノオはヤマタノオロチを退治した後、クシイナダを連れて「スガスガシ地よ」と見つけた須賀の地に宮殿を建て、和歌の起源と言われる「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに 八重垣作るその八重垣を」という言葉を発したという。スサノオを祀るこの神社は須賀神社というのである。
スサノオノミコトは八坂神社では牛頭天王と同一神とされる。須賀神社は西天王社とも言われる。東天王社は少し北東の丸太町通にある岡崎神社がこう呼ばれる。岡崎神社は神使がウサギであり、狛犬ならぬ狛うさぎがいる。そちらの方でむしろ人気がある。
5月第二日曜に行われる須賀神社の角豆(ささげ)祭も京都検定的には押さえておこう。今日はここまで。
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