D級京都観光案内 14 相国寺そして洛中に
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天龍寺、妙心寺と龍の天井画は東京から来た客人には喜んでもらえた。それに勢いづいて龍の天井画で名高い相国寺を目指そう。 京都御苑の北西角は烏丸今出川で、今出川通りを東に行くと右手の南側は京都御苑が広がり、左手は同志社大学がある。今出川御門の信号のところで左折できて、まるで同志社大学の構内を突き抜ける感じで相国寺の山門にやってくる。車はそのまま境内を走らせることができて法堂と方丈の間あたりに駐車スペースがある。 法堂の天井画は狩野光信作の雲龍図である。狩野光信は狩野永徳の長男で探幽の伯父にあたる。この天井は鏡天井といわれ弯曲を持っているものだから中央下あたりで手拍子を打つとそれが大きく反響する。それで「鳴き龍」と称されている。阪急箕面駅前広場のドームの下でも靴音がよく響くが同じ原理だ。 相国寺は永徳2年(1382年)足利義満が発願し(自分の住む室町通東の花の御所の近くに巨大な禅寺を立てたいと思い)、花の御所のすぐ東に40年も前に死んだ夢窓疎石を勧請開山とし、相国寺を建てた。 相国寺は時の権力者足利義満と結びついた寺であったので、京都五山の第2位に抜擢され、あの世界遺産の金閣寺、銀閣寺を山外塔頭としているのだ。金閣寺は足利義満の北山文化と銀閣寺は足利義政の東山文化の象徴的存在と学校で習ってきたが、その両方の本山が相国寺なのだ。相国寺は凄いのだ。全高109mの七重大塔も建てられたが、2年後に落雷で焼失してしまった。 相国寺には山内塔頭もいろいろある。それらは皆国宝を持っていて、京都非公開文化財特別公開の時に限って拝観できるから注意しておこう。もっともそれはA級京都観光に近いのだが。 相国寺境内に承天閣美術館がある。奇才の画家として知られる伊藤若冲は世俗を捨てて禅宗に帰依する相国寺とかかわりの深い宗教人でもあったため、相国寺、金閣寺、銀閣寺が所蔵する古来の名画に触れることもでき、それらに触発され彼独特の作品を生み出していったと考えられる。「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」を相国寺に寄進した。「動植綵絵」は後に宮内庁に献上されることになる。この美術館には伊藤若冲の作品や金閣寺・銀閣寺所蔵の名品が常設展の時にも見ることができる。 境内には宗旦稲荷もある。千利休の孫、宗旦が茶会を開くにあたり、相国寺境内に住む古狐が宗旦に化け見事なお点前を見せたという。さらに門前の豆腐屋の破産の危機を救ったりし人々から宗旦狐と呼ばれ、稲荷として祀られたという。この伝説は何を意味しているのだろうか? 千利休はよく知られているように秀吉に疎まれ切腹させられたしまった。したがってその子も、その孫の宗旦も表に出ることなく密やかに暮らしたのだ。宗旦は4人の息子のうち3人を有力大名家の茶頭として出仕させ、それぞれ表千家、裏千家、武者小路千家を起こさせた。表舞台と表舞台をつなぐ裏舞台をしっかり支えた千宗旦の働きは、まるで古狐のような働きで、それがこの伝説に変わって行ったのだろうか。 さあ次はどこに行こうか。もし桜の4月なら、今出川御門から京都御苑に入り、その北西角に位置する近衛家跡の60本にも及ぶ枝垂桜を見に行こう。車で来たのなら烏丸通をもう一度南に下がり中立売御門から入って駐車場に止めることになる。 老婆心ながら京都御苑と京都御所の違いを述べておこう。いうのも、かくいう私がつい最近までこの二つをごっちゃにしていてどっちも御所と言っていたからだ。 御所は言わずと知れた天皇の政務所である紫宸殿、生活の場である清涼殿を含む建物群からなり、周囲は立派な塀で囲まれており、出入りは6つの門からなされる。春夏に行われる一般公開でその内部を見学することができるが、普段は非公開である。一般公開の時に入場する門は宜秋門である。ついでに言うと葵祭の行列は南に面した建礼門から出発する。 その御所の周囲の今出川通、寺町通、丸太町通、烏丸通で囲まれたところが京都御苑であり、時には御所と呼ばれることもあるので混乱するのだ。幕末には閑院宮家などの四親王家、近衛家、九条家などの五摂家の邸宅をはじめ200余りの公家屋敷が立ち並んでいた。明治になり、明治天皇が東京に移り住むとともに公家たちは華族となって天皇に従い東京に移り住んだ。もぬけの殻になった公家屋敷群は荒廃を極めたが、これを憂いた岩倉具視の建議により公園として整備されるようになり、現在に至るという。 4,50年前の京都での学生時代、京都御苑内の広場は「御所のグラウンド」として研究室対抗の野球大会の舞台となったのだ。一度はホームランを打った記憶もあるし、歌人として有名な(歌会始で召人にもなる)永田和宏君と私とで二遊間を守った記憶もある。 永田君は私より1級下で、1年間ほど同じ研究室にいたが、一旦企業に勤めた後、医学部ウィルス研の大学院に入学し、その方面で着々と研究成果を上げるとともに奥様の炎の歌人河野裕子さんとともに歌人としての名声も高めた人だ。永田君は新聞にもテレビにもしょっちゅう出てくる偉い人になってしまった。そんな偉い人と御所では一緒に野球を楽しんだのだ。御所グラウンドでスポーツに興じる人々を見るとついそんなことを思い出してしまう。 京都御苑は広くて桜のみならずいろいろな自然が楽しめる素晴らしい自然公園だ。その一方で歴史の感慨にふけろうと思えばいくらでも耽れる材料を提供してくれる。そんな中でまず3つの神社を紹介しておこう。 京都御苑内、御所から少し南に下がったところに白雲神社はある。ここはもと西園寺家邸があった所で、西園寺家が琵琶の宗家であり、音曲の守り神として妙音弁才天を祀ってきたところに由来し、西園寺家が東京に移ってしまった後に神社だけが残ったのである。私がいつもいく箕面滝道にある瀧安寺弁天堂は弁才天を祀り、その境内には妙音天像がある。かつてから気になっていた弁財天と妙音天の異同であるが、ネットで見るとほとんど同じものだと書いてある。ただ西園寺家だけはその違いを峻別し、妙音天を守り神として頑なに守っていると読んだような気がしたものだか、御朱印を貰うついでにその疑問を宮司さんにぶつけてみた。 喜んで薀蓄を傾けてくれるだろうとした私の期待は完全に肩透かしを食らい、「ほーっ」という一言で片づけられてしまった。うーん私の勉強しすぎかもしれない。勉強しすぎは嫌味にもつながるのだろう。今後は慎もう。500円とちょっと値の張る絵馬も買った。柄のところに白蛇が巻きつくオレンジ色の琵琶が描かれていた。白蛇は弁才天の神使なのだ。 少し南に行くと宗像神社がある。由緒は古く、藤原摂関政治の緒となったともいえる藤原冬嗣が平安京遷都の翌年、筑前宗像神社を勧請したのが始まりとされる。宗像三女神が祀られ、境内社に琴平神社(金比羅宮)、繁栄稲荷神社、少将井神社、花山稲荷神社、京都観光神社もあり、あらゆるご利益何でもござれだ。宗像神社周辺のクスノキの大木には、毎年4月下旬頃から10月頃までアオバズク が訪れ営巣するという。昨年6月から7月にかけて箕面滝道でもアオバヅクが営巣し、連日散歩客の目を楽しませてくれたものだ。こんなことでも箕面とつながりがあったのだ。 宗像神社を南に行くとすぐ右手に閑院宮邸跡があり、公園事務所も入り京都御苑の自然と歴史についての展示があり、そして庭園も公開されている。 閑院宮邸跡から東に行くとすぐ右手に九條池と拾翠亭がある。ここは九條家の屋敷内に設けられた庭園の遺構だ。四季折々に美しい姿を見せてくれる。拾翠亭は江戸後期に作られた茶室で、申し込めば誰でも茶会に利用できるらしい。 九條池の畔に厳島神社(池の弁天さん)がある。平清盛が母祇園御前のために建てたとある。祭神は宗像三女神と祇園御前。わざわざ神使はヘビですとも書かれている。私がどうしてもここを訪れたかったのはヘビを見たかったのではない、京都三珍鳥居の一つ、唐破風鳥居をこの目で確かめたかったのだ。鳥居の笠木が弯曲した唐破風(からはふ)になっている。ちなみにあと二つは蚕ノ社の三柱鳥居、北野天満宮の伴氏社の鳥居で京都検定頻出問題である。 でもなぜ池の弁天さんと言われるのかが気になった。さっきの白雲神社が弁天さんだったのじゃないの、どうなっているのと考え込んでしまった。家に帰ってネットで調べると謎は氷解した。その謎を解くカギは「神仏習合」である。弁財天はもともとインドのヒンズー教の神を仏教に取り込んだものだが、神道では市岐嶋姫命または市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と同一神とされる。 白雲神社の祭神は市杵島姫命、宗像神社、厳島神社の宗像三女神の一神は市岐嶋姫命で、弁財天の化身だったのだ。箕面瀧安寺はお寺だから弁財天を祀っていることになる。京都御苑と箕面滝道は弁天さんを通じて強く結ばれていたのだと妙な感慨を持ってしまうのだ。 次は食べ物を探しに行く。駐車場から烏丸通を北上するが左手に護王神社がある。祭神は和気清麻呂、和気広虫姉弟。狛猪があり、足腰の守護神。 今出川通りで左折し、次の信号室町通を左折南下する。しばらく行くと本田味噌がある。駐車場もある。立派な暖簾がかかっているが店内は今風。千里阪急地下にも売っている商品もあるが、本店ならではの商品も多い。目移りしてしまう。やはり京都に来たのだから白みそでしょう。白みそ仕立ては食べ慣れない者にとっては甘ったるいというか物足りないというか今一と思ってしまうのだが、ここの白みそで作ったものは結構おいしいと思うようになってきた。 5歳まで鳥取で育ち、京都で迎えた初めてのお正月のお雑煮がどでかいかしらいもが入った白みそ仕立てのものだった。京風にと母が丹精込めて作ってくれたものだったが、6歳の私には食べにくくて食べにくくて。でもそれを食べきらないと大好きなお赤飯が食べられないので苦闘した思い出がある。本田の白みそはそんな幼い日の葛藤を風化させてくれる力があるようだ。 車をさらに南に走らせ下立売通を右折し、府庁、府警を過ぎて西洞院通りを左折する。100mも行くと生麩、麩饅頭の店「麩嘉」本店がある。格子戸に大きな暖簾がかかっている。小屋根には鍾馗さんが祀られ、中二階の白壁には、虫籠窓(むしこまど)があるいかにも京町屋という風情だ。暖簾をくぐると土間に椅子が置いてあり、畳の部屋には商品棚があるわけではない。仕事場に通じる奥から若い女の子が出てきて、ご予約ですかと聞いてくる。本店は完全予約制なのだが、まだ余っているのがあれば分けてもらえるのだ。粟麩、シンプルな道明寺、胡麻麩をよく買うが、クジラといって黒胡麻麩と白胡麻麩を二層に重ねてまさに鯨だというのもあった。オーブントースターで焼いて本田の味噌をつけて食べたらそれはうまいのなんの、至福の時だった。ちょっと大袈裟か。 もちろん麩まんじゅうも大体ゲットできる。ただ季節限定の栗入り麩まんじゅうは予約しないと手に入らない、念のため。 さあできたての麩まんじゅうを頬張りながら次の目的地へ車を走らせよう。 |
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