D級京都観光案内 21

鷹峯と医学の源流

 

千本通りはかつて朱雀大路であった。朱雀大路は道幅85mに及ぶ平安京のメインストリートであった。だが間もなく荒廃し蓮台野という葬送の場になったことすでに述べたとおりである。

釘抜地蔵、千本ゑんま堂そして上品蓮台寺(じょうほんれんだいじ)を過ぎると千本北大路の交差点に来る。左に行くと金閣寺に通じ、右に行くと大徳寺前に至る。我々をこのまま北進する。左側に佛教大学が見え、今宮通りと交わる交差点にやってくる。今宮通りを右に行けば今宮神社前に至る。

Y字路で広い右前方の北山通りに行かず、左前方のやや細い道(鷹ヶ峰街道)を行く。

150mほど行ったところを左に曲がると鷹峯旧土居町になり、突き当りにお土居跡がある。このことを覚えておいて鷹ヶ峰街道をさらに150m行くと左手に「万湯葉」の暖簾がかかっている。店の横に2台駐車スペースがある。人の好いおじいさんとおばあさんが対応してくれる。いろんな湯葉があるが汲み上げ湯葉がおいしい。わさび醤油で食べるのが好きだ。うどんや汁にちょいと入れるのに便利だという湯葉も置いてある。いろいろちょこちょこと買うのが楽しい。

湯葉で思い出すのは麩屋町通御池上るの老舗「湯葉半」でのことだ。汲み上げ湯葉は値段が高くてびっくりし、女将の傲慢な態度にも二度びっくりした。でも昔の京都人はみんなそうだった、京都の有難味の根源はこの傲慢さにあるのだといえないこともない。

万湯葉から5,60mいった右手に、セブンイレブンの少し手前の道端に「徳川時代 公儀 薬草園跡」の石碑があり、その説明板がある。それによると、寛永17年当地110m四方に薬草園が設置され、時の禁裏、幕府の御典医であった藤林道寿一族に管理が委ねられ、明治時代になり藤林道寿が解任され廃園となるまで、禁裏には95種の薬草が献上され江戸には73種が運ばれたという。しかしながら江戸の小石川薬園跡は今も東京大学理学部が管理し使用しているのに、それに引き換え当薬草園は井戸跡と鷹峯藤林町と地名になお残すだけだと嘆かれている。

しかしここで作られた辛味大根、朝鮮ニンジン、とうがらしなどから伝統的京野菜へと改良され鷹峯がその名産地となっているという。

この石碑の道を挟んだ向かいに1階は格子戸そして虫籠窓(むしこまど)を持つ中2階の京町屋風の農家があり、横の広い作業場兼駐車場には「すぐき」ののぼりが立っている。自分のところで採ったすぐき菜をつけて直売している農家だ。もし12月から3月の冬の時期に訪れたら幸運なことに、真っ赤のほっぺのお姉さんが(もう30年前の時代から甦ったのではないかというような)懐かしいひなびた様子で漬け込みの手を休め、どのあたりのすぐきがおいしいか解説してくれながら直売してくれるだろう。思いのほか安いのでうれしくなる。

漬け込みからは季節外れの時期に尋ねたのなら、家の片隅にあるすぐきの自動販売機を利用しよう。300円か500円の真空パックのすぐきの古漬けがゲットできるはずだ。それで我慢しておこう。十分発酵していて我慢するだけの値打ちはあると思っている。それにしても漬物の自動販売機があるとは驚きだ。

すぐきのDNAが向かいの薬草園由来のものなら、医者としてこよなき幸せと言えるのだが、残念ながらそこまでは調査しきれない。

さあ車を走らせよう。50mも行くと右手に京つけもの長八と漬物屋の老舗が見える。この店の漬物がどんなのか知らない。ほっぺの赤い田舎娘さんに親和性を持つ我々はついスルーしてしまうからだ。

150mも行くと右手に都本舗光悦堂が見えてくる。名物「御土居餅」を売っているのだが、それ以上に有名なのは道の向かいに見える正真正銘の御土居の管理人さんということだ。御土居といっても本来の堤のほんの一部分だけで、ちょっとした盛り土なのだ。そこには1本の桜の木が植わっていた。春になると立派な花を咲かせる。つい桜の根元に近づきその花を見上げてみたい衝動に駆られるが、鍵付きのフェンスがしてあり近づけないのだ。その鍵の持ち主が管理人のお饅頭屋さんなのだ。このお饅頭屋さんはテレビ取材を何度も受けているのでちょっとした有名人なのだ。

さて今度は地図の上でこの地点から右に目を走らせてみよう。東北東に500mほど行ったところに大宮土居町という地名がある。ということでお饅頭屋さんの前あたりから東に御土居の北境界が走っていたのだろうと推測できる。

となると京の七口の一つ長坂口はこのあたりだったのだろうと思われる。御土居が街道のために開けているところを口としたのだろうから。洛中と丹波や若狭を結ぶ街道の出入り口だったのだ。

そこからさらに150mも行くと信号があり左手に有名な松野醤油がある。松野家は安土桃山時代よりこのあたりに居を構え、御所の御用を務める傍ら文化2年(1805年)より醤油づくりを始めたという。今もその蔵を使い製法も守り続けているという。古い町家づくりの入り口の土間から奥のほうに見えるその蔵が江戸時代から続くものなのだろう。

この街道の突き当りの道路標識は鷹峯と記されている。鷹峯が歴史的に脚光を浴びるようになるのは、琳派の祖である本阿弥光悦が徳川家康よりこの地に広大な土地を与えられ、家族一族をはじめ職人集団を引き連れ移り住み、光悦(芸術)村を営んだことに始まる。

光悦は卓越した近代工芸の芸術家であった。「舟橋蒔絵硯箱」などの蒔絵、「毘沙門堂」「不二山」の楽茶碗など国宝、重要文化財の工芸を生み出し、寛永の三筆と言われる能書家であり俵屋宗達の絵に書を書き、豪商角倉素庵が嵯峨本として出版するなど多芸多才であった。

光悦が率いて移住した人たちは光悦も含めて皆法華宗だった。そこで本阿弥家の先祖供養のため位牌堂「法華題目堂」を建てたが、後に日蓮宗の寺院光悦寺になった。

鷹峯の交差点を左に曲がりしばらく行くと左手に光悦寺参詣入口の案内板がある。そこから長い参道のような石畳を行くと門がある。紅葉の頃はきっと綺麗なことだろう。門内に入るといくつもの茶室が点在し、敷地すべてが庭園となり、光悦垣も見ることができるし、光悦の墓もある。背後には鷹峯の三山(鷹ヶ峰、鷲ヶ峰、天ヶ峰)も見える。近代一の天才芸術家の感受性の残したものをちょっとでも嗅いでおこう。

もとの道を戻り、鷹峯の交差点をこえてすぐの道の向かい側に曹洞宗源光庵はある。「悟りの窓と迷いの窓」であまりにも有名な寺院だ。「そうだ、京都、行こう」平成7年キャンペーンで、「私は宇宙を、友人は人生を、考えていたのでした」と紹介され、観光客があふれかえる大フィーバーを起こしたのだ。

そういえば観光客たちは一様に丸い窓と四角い窓の前にいつまでも座り、まるで宇宙に思いを馳せつつ自己の煩悩に向かうがごとく悩ましい顔をしているのである。ということで紅葉の季節は混んで混んで仕方がない。枯山水の庭も素晴らしいには違いないが。

この寺のもう一つの有名なものは血天井である。伏見城での鳥居元忠の討ち死にした時の廊下の床板を供養のために天井に移築したものだ。さらに「稚児の井戸」というのもある。飲み水に苦労した和尚が童子に教えられて掘ったら湧水が出てきて、今でも水は枯れたことがないという言い伝えがあるという。

源光庵を出てもと来た道を交差点をこえてどんどん進むと常照寺にやってくる。元和2年(1616年)光悦が寄進した土地に日乾が開創した日蓮宗の寺だ。ここは日乾に帰依した吉野太夫のゆかりの寺として有名である。

吉野太夫は京都の遊女の最高ランクを表す名跡で、常照寺ゆかりの太夫は2代目である。美しかったのはもちろんとても才能豊かな人で、和歌、連歌、俳諧、書道、茶道、香道、立花に優れ、琴、琵琶、笙なども上手く、貝合わせ、囲碁、双六などにも強かったといわれる。馴染み客は天皇の息子や豪商の灰屋紹益で、名声は中国明にまで鳴り響き呉興なる男から恋文が届いたといわれる。

吉野太夫26歳の時、22歳の灰屋紹益に身受けされ、夫婦となるが、12年後38歳で亡くなってしまう。佳人薄命なのである。4月第3日曜日には吉野太夫をしのんで吉野太夫花供養が行われる。島原太夫が、高下駄で内八文字を描きながら源光庵から常照寺本堂前まで練り歩く太夫道中がある。

常照寺の朱塗りの山門は吉野太夫の寄進したもので「吉野の赤門」といわれる。太夫の墓や灰屋紹益との比翼塚があり、茶室「遺芳庵」には吉野太夫の好んだ大きな円窓の「吉野窓」がある。吉野太夫を偲んで植えられたという吉野桜、さらには帯塚もある。

常照寺の隣はなんと日本料理の「雲月」なのだ。小松昆布で有名な料亭だが、相国寺の高僧がある雑誌で推薦する素敵な料亭と紹介していた。京都の高僧たちの御用達のお店らしく、我々俗世界の庶民には手が届きそうもない。ただ敷地5千坪というから、一度は冥土の土産に行ってみたいものだ。

ここの地名は大宮玄琢北東町である。この玄琢は徳川時代の医師野間玄琢に由来する。鷹峯藤林町がそうであったように。大宮玄琢北町、大宮玄琢南町と続き、玄琢下の交差点のあたりで先ほどお土居のところで説明した大宮土居町につながっている。

青木歳幸の「江戸時代の医学 名医たちの300年」によると、戦国時代末期に我が国医学を革新したのが曲直瀬道三(1507-94)と養子曲直瀬玄朔らの門流だという。宣教師フロイスから当代一の名医と言われた道三は有力武将の治療にあたりついには天皇の侍医にまでなった。玄朔も関白豊臣秀次の侍医となり、後陽成天皇の治療にもかかわっている。

野間玄琢は玄朔の高弟であり、将軍秀忠の侍医として江戸に下り、後に帰洛して禁裏付き医師となった。鷹峯に屋敷を有し、内部に大きな薬園を作り、そこは寛永17年には幕府直轄の鷹峯薬園になったと書いてある。

ここで私は悩んでしまった。最初の鷹峯薬草園の説明文でも寛政17年に開設されたとあるが、その管理は藤林道寿に委ねられたとある。野間玄琢が作っていた薬園との一言の断りもなかったのだ。玄琢の地名が薬草園跡と離れたところにあることから、そのどちらにも薬草園はあったと考えたほうがいいのではないか。私にはそのように思えるのだ。

玄琢の墓所は、かつての拝領地内にある。さっきの雲月の前から道は玄琢下に向かって曲がっていくが、その曲がり角のところを雲月の広大な塀に沿って左に折れ右に住宅街を見ながら突き当たったところに「野間玄琢廟所」の顕彰碑が立っている。その奥には玄琢一族の墓所もある。

鷹峯は実は医学の源流が埋もれているところだったのだ。


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