D級京都観光案内 40

天満宮めぐり

北野天満宮界隈には、北野詣でに来た人、25日の縁日「天神さん」に来た人たちが立ち寄る昔からの店が多くある。

江戸時代から門前茶店を出している、粟餅所澤屋は一の鳥居(大鳥居)から今出川通の横断歩道を渡ってすぐ西にある。古くて小さなお店だ。餅を餡でくるんだ「餡餅」と、餅にきな粉をまぶした「きな粉餅」が目の前で作られる。そこで食べることもできるし、持ち帰ることもできる。

境内に茶店も出している老松は明治41年創業で、天満宮の少し東、上七軒の中にある。夏ミカンゼリーがことのほか有名だが、それ以外の和菓子もある。値段はずいぶん高いが。

一の鳥居のすぐ横にカステラ パウロという、天神さんとは一見不釣り合いな洋菓子の店がある。長崎の出島でポルトガル菓子からカステラが生まれたが、ポルトガル人のパウロさんは来日してカステラづくりを学び、里帰りしてポルトガルのリスボンでカステラ パウロという菓子店を作り大好評を博したという。もう一度日本に戻り、縁あって元造り酒屋の蔵に出会い、改造して、カステラやポルトガル菓子を売ることになったという。

このカステラ屋さんの前を南北に延びる通りは御前通という。その名の由来は北野天満宮の前に通じる道というところからきている。交差点をこえて御前通を下がったすぐ西側に、「手打ちうどん たわらや」はある。築400年の町家を利用した店舗で、梅の香うどん、御飯(ちりめん山椒)、一品(季節のもの)、香物、デザートのセットの「たわらや御膳」と、太くて長い一本うどん、さっぱりとしただし汁に土生姜のピリッとした感触が自慢の名物「たわらやうどん」が一押しメニューらしい。

一の鳥居前交差点から今出川通を粟餅屋に行く手前に行列のできるお豆腐ランチの店がある。とようけ屋山本という豆腐屋さんがやっているお店で、お持ち帰りでとようけ屋の豆腐も買うことができる。とようけ屋の豆腐は千里阪急の京都食品コーナーでも買うことができる。「とようけ」という名は伊勢外宮豊受大神宮に祀られる食物・穀物を司るトヨウケビメにあやかってと記されている。

今出川通の北側で粟餅屋の向かいから少し西に進んだところに藤野豆腐が出している豆腐カフェの店TOFU CAFÉ FUJINOがある。藤野の豆腐はオアシスか千里阪急で買えたと思うが、その記憶が定かではない。まあ皆さんにとってどうでもいいことだろう。

パウロのカステラ屋さんの北3軒目に北浦豆腐店がある。そう、北野天満宮あたりは豆腐屋激戦区なのだ。

北野天満宮界隈の食べ物屋さんについてはこれぐらいにして、いよいよ肝心の天満宮めぐりに移ろう。その前に境内にある寺院、朝日山東向(ひがしむかい)観音寺に触れておかないといけない。

日本の神社と寺院の間には、神仏習合と廃仏毀釈という真逆の二つの流れの歴史がある。片や集合一体化であり、片や分離差別化である。 

朝日山東向観音寺の歴史は寺院と神社の関係を知る上で貴重な教材となっている。当寺の創建は平安京の守護として、平安京への遷都に功績のあった藤原小黒麻呂により朝日寺として建てられたことに始まる。前号でも述べたように、多治比文子の受けたお告げから、当寺の僧最鎮らの努力により北野天満宮は建てられた。

太宰府に流された菅原道真は筑紫の観音寺で十一面観音像を刻み、それが朝日寺に勧請されることになる。神仏習合の流れの中で、天神様(菅原道真)の本地仏が十一面観音であるとされ、朝日寺は観音寺と名を変え、北野天満宮の神宮寺(神社を守る寺)となった。鎌倉・南北朝時代の諸天皇の庇護を受けて栄え、江戸時代には本堂が東向きのあったことから東向観音堂と呼ばれるようになった。

明治になり、三の鳥居西側の伴氏社にあった仏教施設の伴氏本廟も廃仏毀釈の流れの中で当寺に移されている。当寺は財政的援助も受けられなくなり、北野天満宮の神宮寺であったと言われないと分からないくらいつつましい現在の姿になっている。

さあ次は北野天満宮の源流といえる神社を訪ねてみよう。

北野天満宮から今出川通を東に進み、堀川今出川で左折して堀川通を北に行く。宝鏡寺や本法寺を通り過ぎ、上御霊前通の交差点のすぐ北側に、北野天満宮の原点ともいえる水火天満宮がある。

菅原道真が太宰府に左遷されその地で死んだ後から、都では火災・水害が相次ぎ、藤原時平一門に不幸が襲い、道真公の霊による祟りに違いないと噂された。祟りを恐れた醍醐天皇の勅願により、火災・水害を鎮めるために道真の霊を祀ったのがこの神社の始まりである。その場所は道真の師である天台座主・尊意の屋敷内だった。道真の死後20年のことであり北野天満宮創建の24年前にさかのぼる。

醍醐天皇の道真の霊を鎮めるべしとの勅命を受け、尊意は延暦寺から御所に向かった。その途中、氾濫する鴨川まで来た時、尊意が剣をかざしながら祈ると、たちまち鴨川の水位は下がり、川中に石が現れ水流は二つに分かれた。その石の上に菅原道真が現れ、そして消えたという。尊意はその石を持ち帰り、供養した。それ以後、天変地異はぴたりと収まり、その石は「登天石」として境内に祀られている。その横には「出世石」なる神石もあり、これを祈れば大願成就し、世に出ることができるという。

当社の境内は隣接する公園よりずっとずっと狭い質素なものだが、この近隣には見所が一杯ある。すぐ南に下がれば長谷川等伯の涅槃図で有名な本法寺があり、さらに下がれば人形の寺宝鏡寺がある。その東側には、裏千家の今日庵、表千家の不審菴がある。さらにその東には光琳曲水の庭で有名な洛中法華寺院の先頭に位置する妙顕寺もある。

天神信仰発祥の地として押さえておかないといけない神社は東本願寺の関連施設、渉成園(枳殻邸)の北歩いて2分に位置する、文子天満宮である。前回「北野天満宮」の中でも触れたように、北野天満宮の境内の北側に「文子天満宮」があり、多治比文子が自宅に祀った祠を遷したもの説明されていた。

枳殻邸のすぐそばにある文子天満宮は間之町通を上珠数屋通から花屋町通に行くちょうど中間あたりにある。いかにも京都らしい住所のこの神社へは車で行くのはふさわしくない。駐車するところが近くにはまったくないのだ。

この神社の「天神縁起」によると、菅原道真が太宰府に左遷されるその途次に乳母多治比文子に形見として道真自身で彫った神像を授与された。文子は庭前に小祠を作り、その神像をお祀りしたのが当神社の起こりだとある。

この神社の伝承では多治比文子は道真の乳母だとある。当然道真より15歳以上年上である。道真が左遷されたのは57歳の時であるから、形見を貰ったのは70歳を超えていたはずである。北野天満宮創建縁起によると、46年後の天暦元年(947年)に多治比文子の願い出によって北野天満宮を創建したとある。となると多治比文子は御年115歳となる。これはなんぼなんでもおかしいのじゃないと思ってしまう。多治比文子が道真の乳母だったという説はちょっと無理があるようだ。

そうではあるがこの神社の本殿には菅原道真公が祀ってあり、相殿には、文子比売、母君の伴氏、父君の是善公が祀ってある。

菅原道真の生誕の地は天満宮の源流だと考えられる。道真生誕の地だと名乗る神社は京都に3カ所もあるのだ。北野天満宮に近い方から訪ねてみよう。

菅原院天満宮神社は烏丸丸太町から北に上がった京都御苑の下立売御門の向かいにある。すぐ北にあるガ―ディナーの設計による聖アグネス教会聖堂(平安女学院の礼拝堂でもある)も目を引く建造物だ。菅原家が3代にわたって住んでいた邸宅・菅原院があった所で、道真はここで生まれた。その時の産湯に使ったとされる井戸が菅公初湯井として境内にある。道真が亡くなった後、邸宅内に道真を祀る小祠が建てられたが、それがこの神社の始まりという。なお、この神社では京都御苑内にある厳島神社の御朱印も授与してもらえる。

次に向かうのは西洞院通を仏光寺通から高辻通に南下するその中間あたりの東側にある菅大臣神社である。社伝によれば、この地が菅家の邸宅跡で道真はここで生まれ、産湯を使い、幼少期はこの屋敷で勉学に励んだという。本殿は明治2年下鴨神社の本殿が移設されたという。由緒正しい神社らしい。5月の第2日曜には菅大臣祭が行われ、聖護院門跡の山伏によるお練りと大護摩法要があり、茂山千五郎社中による狂言の奉納もある。

境内には道真の産湯に使ったという「天満宮誕生水の井」があり、飛梅伝説の梅が鳥居の横にある。道真が語りかけた梅の木は仏光寺通を挟んだ北にある北菅大臣神社の紅梅殿の横に植わっていたものをここに移植したものという。

西洞院通に面しては「天満宮降誕之地」の石碑が立ち、仏光寺通の北菅大臣神社の入り口には「菅原邸址」の石碑がある。

なお西洞院通は南北の通りであり、平安京の西洞院大路に当たる。平安京では幅24mの広さを誇ったが、漸次縮小されて今に至っている。それでも昭和36年まで京都駅近くの塩小路から四条通までは京都市電堀川線が走っていたから、現在でもまだ広い通りとして残っている。

3つ目の道真生誕地とされるのは西大路十条を西に入った、吉祥院天満宮である。曾祖父の代からこの地に住み、祖父が遣唐使となり、唐に向かう途中暴風雨にあったが、吉祥天の霊験を得て無事唐に渡ることができたという。帰国後吉祥天を自邸内に祀ったのが創祠とされる。

父の代で、吉祥院という仏寺を創った。道真はこの地で生まれ、18歳までここで過ごしたという。道真が左遷され、太宰府でなくなると、この地に道真公聖廟が置かれ、30年後に朱雀天皇の勅願により天満宮を創建したという。代々天皇により勅祭が行われ、豊臣秀吉によって廃されるまで続いていた。

境内には道真のへその緒を埋めたという胞衣塚(えなづか)がある。幼少期この水で習字をしたという「硯の井」、朝廷に出向くときに姿を映し身なりを整えたという「鑑の井」もある。

425日と825日には六斎念仏(ろくさいねんぶつ)が奉納される。六斎念仏は、鉦や太鼓ではやし、念仏を唱えながら踊る民俗芸能であり、平安時代空也上人が仏教を広めるために行った踊躍(ゆやく)念仏が起こりとされる。江戸時代に風流化して娯楽性に富んだ芸能六斎という系統も出てきたが、こちらはその系統に属している。

毎月10日には境内で吉祥院ガラクタ(骨董)市が行われるが、六斎念仏の奉納とともに、この神社が吉祥院という地域に密着して存在している証かもしれない。「天神さん」の縁日25日には仏教行事が行われ、縁日のような骨董市が25日ではなく10日に催されることも興味深い。


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