D級京都観光案内 59 明智光秀を探して 4 天王山、勝竜寺
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本能寺の変後、主君の仇を討つの大義名分のもと中国大返しの離れ業で都に攻め上る豊臣秀吉を明智光秀が迎え撃つ山崎の合戦は、戦いを制した秀吉が後に天下を取ったことより、天下分け目の大決戦と呼ばれる。秀吉の本陣が天王山の麓にある宝積寺(宝寺)におかれ、天王山を制したことがこの合戦の趨勢を決めたと流布喧伝されたことから「天下分け目の天王山」と言われるようになっている。勝敗の分かれ目となる時・所・戦いを単に「天王山」とたとえることも多い。
まず天王山に登ってみよう。標高270mの低山だから山登りというよりハイキングという感覚である。でも革靴やハイヒールで行くのはさすがにまずい。ハイキングスタイルでリュックも担いでいこう。
阪急で行くなら大山崎駅、JRなら山崎駅が最寄り駅。車で行くならJR山崎駅から京都側の最初の踏切の奥に駐車場がある。大山崎というのは京都府大山崎町の地名である。山崎は大阪府島本町の地名である。サントリー山崎蒸留所は島本町山崎にある。
JR山崎駅の駅舎は大山崎町にあり、京都府の駅と登録されている。しかし駅のホームの一部は島本町山崎にもあり、ホーム上に府境を示す表示がある。京都検定で2回も「ホームに他の府県との境界線のある駅はどこでしょう」という問題が出ている。京都検定はここまで雑学が要求されるのだ。
閑話休題。スタートはさっきの踏切だ。東海道線は複々線、しかもすぐそばに駅があるので、普通電車は減速する。ということで踏切が閉まる時間は結構長い。でも特急電車などが通過するのを見るのはいくつになっても楽しいものだ。かつて幼かった息子と一緒に踏切の前を列車が通過するのを眺めにきていた。EF66電気機関車が長い貨物列車を牽引し、目の前を疾走するのを息子と同じように心躍らせて見ていた。そんなことを思い出させる踏切だ。
踏切を渡ると左右に行く道もあるがまっすぐ登る。左に行く道をとれば聴竹居に通じる。聴竹居は竹中工務店を経て京大教授となった建築家藤井厚二氏の環境共生住宅の原点としての実験住宅である。見学は普段は予約が必要だが、特別なイベントの時には一般公開されることもあるようだ。
まっすぐ登ると道はすぐ二つに分かれる。右へ行く道にはアサヒビール大山崎山荘美術館がある。実業家加賀正三の山荘を地元有志、行政とアサヒビールが復興し、建築家安藤忠雄の現代建築も加え美術館として開館したものだ。時間があればぜひ見学したい。道の分かれ目のところの石段を上ると大念寺はある。寺宝に阿弥陀如来立像(重文)があるがこの拝観は要予約である。
勾配のきつい道を登っていくと宝積寺の山門にたどり着く。山号は天王山、通称は宝寺である。724年聖武天皇の勅願で行基が創始し、本堂に十一面観音を祀ったという。歴史ある古い寺である。
寺伝によると、竜神が中国より願い事が何でもかなう打出と小槌(打出の小槌ではない)を日本に伝来した。聖武天皇は夢に現れた竜神に打出と小槌を授かり、この宝寺に奉納した。後年インドよりご本尊大黒天尊を勧請し祀っている。現世利益を保証するもので、参詣客で賑うのも無理はない。
一説によると行基が淀川(桂川、宇治川そして木津川がここ大山崎で合流する)にかけた山崎橋の保守管理をする橋寺として建てた山崎院がその前身ともいう。山崎橋は度重なる洪水で流され、江戸時代以降は再建されることがなかった。西国街道の山崎と対岸の京街道の橋本を結ぶ渡し舟が昭和37年まで橋の代わりをしていた。
山門内の仁王像は鎌倉時代の作である。境内に入りすぐ目に付くのが、秀吉が一夜のうちに建てたという三重塔である。桜や紅葉を一緒に写し込むといい絵になる。本堂の左手には大黒天と打出と小槌を祀る小槌宮がある。本堂の前には腰掛になるような石があり、「秀吉 出世石」とある。山崎の合戦の時にここに座って後に天下を取ったから言うのだろう。
本堂の右手にある建物内に閻魔大王とその眷属像計5体が安置され、いずれも重文である。確かに見ごたえのある像である。
この建物の裏から天王山に通じる道はある。すぐに登りごたえのある道になるが、ちょっと汗ばんできたかなと思う頃には青木葉谷展望広場にやってくる。大阪平野が一望できるところであべのハルカスや大坂城横のツインビルなどを見ることができる。馬鹿でかい「秀吉の道」陶板画も設置されている。
一休みして元気になったところで登り出す。10分もしないうちに旗立松展望台にやってくる。山崎の合戦の主戦場になったのは現在大山崎JCがあるあたりで、ここから一望することができる。
山道には酒解神社(さかとけじんじゃ)の巨大な石の鳥居が立っている。そこをくぐり、しばらく登ると「史跡 禁門の変 十七烈士の墓」にくる。幕末、禁門の変で敗れこの地で自刃した真木和泉ら17名の眠る墓地である。
さらに進むと古びた建物がいくつかある神社にやってくる。自玉手祭来酒解神社(たまてよりまつりきたるさかとけじんじゃ)である。大山崎の産土神で、明治以前は牛頭天王(ごずてんのう、八坂神社の主神でもある)を祭神とし、天王山の名前の由来はここにある。神輿庫は鎌倉時代の建築で板倉形式としては日本最古である。
ここを通り過ぎれば山頂まではもう一気に登れる。標高270m、頂上付近には合戦後秀吉が築いた山崎城の城跡もある。見晴らしもよくお弁当のおにぎりを食べるには絶好の場所だ。
下りは旗立松展望台を少し下がったところでもと来た道から分かれ、山崎聖天の裏に下りていく。大分急な坂道で滑らないようゆっくり下りる。ほどなく山崎聖天の裏門に来る。
山崎聖天の寺号は観音寺、平安時代宇多上皇により建てられ、江戸時代木食以空が中興した。本堂横に大聖歓喜双身天(象頭人身立像が抱擁する双身像)が祀られる聖天堂があり、商売繁盛・良縁和合・除災招福の御利益があると大阪商人の篤い信仰を受けた。山崎聖天の通称はここからきている。
境内は広く秋の紅葉、黄色い散イチョウ、春は桜が見事である。急な階段を降り山門を裏からくぐると、さらに急な階段と緩やかな長い参道が大きな鳥居のところまで続き、そこで広い舗装道路に出る。
出発点の山崎駅の方に戻ると、平安京の瓦を作ったという史跡大山崎瓦窯跡があり、さらに戻ると山崎院跡の碑があり大イチョウの木が聳え立っている。もう少し戻れば元の踏切にやってくる。
明智光秀に直接関係はないが、このあたりには見所が多い。山崎駅前の広場に面して国宝待庵を有する妙喜庵がある。俳諧の祖、山崎宗鑑が室町時代後期に庵を結んだあとを東福寺の僧が寺に改めたものだ。山崎の合戦で勝利した羽柴秀吉は城を築くとともに千利休を呼び寄せ、城下に住まわせた。その時利休が作った茶室が、妙喜庵に譲られたという。妙喜庵の参拝には1か月以上前から往復葉書で申し込みをしないといけないようである。
山崎駅から40mほどのところに東門を持つ離宮八幡宮はある。清和天皇が宇佐八幡を都に勧請するように命じ、当地に八幡宮が建てられたが、境内に石清水という神水が湧き出てていたことにより石清水八幡宮と呼ばれた。ほどなく対岸の男山に石清水八幡宮は遷座し、残ったこの地はかつて嵯峨天皇の離宮「賀陽宮」の跡地だったため離宮八幡宮と号するようになったという。
この神社の神人が「長木」という搾油器を発明し荏胡麻(えごま)の種子から製油した。油座の制度により油の独占販売権を得て、当社は繁栄を極めたが、信長の楽市楽座、菜種油の増加が向かい風になり、禁門の変での焼け討ち、、東海道線開通での社地の減少から現在の姿になっている。
離宮八幡宮の南側の西国街道をほんの少し行くと三笑亭はある。明治時代創業の府境に立つ老舗天ぷら店で、離宮八幡宮の油を使うことで創業したというから凄いものだ。今の店主は3代目か4代目だと思うが、私の中学時代の同級生の2つ上の兄さんである。料理はうまくてんぷらはもちろん目の前で揚げてくれる。ネットではサントリー山崎蒸留所へ行くコースに組み込まれて紹介されているためか、予約を取るのも大変な人気店になっているようだ。
そうだ、明智光秀を探さないといけない。山崎古戦場碑を見に行こう。歩いてもいいが、車で行ってしまおう。西国街道を京都側に戻る。名神高速道路の下をくぐってすぐ右折すると天王山夢ほたる公園が小泉川沿いにあり、山崎古戦場の石碑がある。このあたりが激戦地であったのだ。
そこから北東のサントリー京都ビール工場に隣接し下植野公園の横に明智光秀本陣跡・境野1号墳はある。ただ私の車のナビは性能がよくなくて、ここにたどり着くことができなかった。
その代りすぐ近くで、広い道路沿いにある中山修一記念館をじっくり見学することができたのだった。中山修一は昭和20年代文献上だけで幻の都とされた長岡京の実在を信じ、教職の合間を縫ってほとんどただ一人で発掘調査を重ね、実在を明らかにしその調査保存に尽力したのである。昭和34年には、私が住んでいた西向日のすぐそばで大極殿跡が発掘され、小学4年生の私は古の都の真ん中に住んでいることを誇らしく思ったのだ。そんなことを追体験したような訪問だった。
この記念館の前の通りの二つ目の交差点・恵解山口を北に行くと恵解山(いげのやま)古墳がある。全長120m、乙訓地域最大の前方後円墳である。明智光秀はここを本陣にした可能性もあるという。
古墳をぐるっと回るように道を行き、信号のある交差点を左に行くと勝竜寺城跡にやってくる。勝竜寺城は織田信長により明智光秀の盟友細川藤孝に与えられ、藤孝によって二重の堀を持つ堅固な城に改修されたという。藤孝の嫡男忠興と光秀の次女お玉(のちのガラシア)はこの城で婚礼の儀を行い、新婚時代を共に過ごしている。3年後藤孝は丹後に移封されたため、忠興・玉夫妻も宮津城に移り住んでいる。
2019年秋、勝竜寺城はリニューアルオープンした。また例年11月第2日曜日には長岡京ガラシャ祭りが催され、豪華な歴史衣装を身にまとい、玉の輿入れの様子を再現した約1,000人の大行列が勝竜寺城迄練り歩く。
本能寺の変後勝竜寺城は光秀の属城となり、光秀側の重要拠点になったのだが、期待していた細川親子の援軍が得られず、山崎の合戦で敗れた光秀はこの城に退却するが、そこでも持ちこたえられず坂本城に逃走することになる。そして途中の山科小栗栖(おぐるす)の竹藪で武者狩りの土民の竹槍で突かれ深手を負い自刃した。現在その竹藪の持ち主である本経寺により整備され、供養碑が立っている。その奥にも明智藪の駒札が立っている。
勝竜寺城南200mほどのところに城名のもとになった古刹勝竜寺がある。空海の開基と伝わる真言宗の寺院である。ご本尊は十一面観音であり8月18日と11月第2日曜だけ開帳される。ぼけ封じ観世音菩薩銅像が境内に立ち、ぼけ封じ近畿十楽観音霊場の第三霊場となっている。神仏習合の名残で境内には地域の氏神様、春日神社も祀られている。 |
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