D級京都観光案内 13

天龍寺そして妙心寺

  横浜に住む兄夫婦が京都にやって来た。大阪に住む姉と我々夫婦とも含めたきょうだい会を京都の料理屋さんでするのだが、その前に京都観光の案内役を務めることになっている。兄は京都の向日町に16年間住んでいて、そのあとは大津、名古屋、東京、横浜と移り住んだが、仕事がらみや同窓会などでちょいちょい京都にはやってきており、そこそこの京都の有名どころには行ってるよという。

こういう兄夫婦を満足させるにはまさに私のD級京都観光案内の真価が問われるときである。気合を入れて案内しよう。京都駅まで迎えに行き、二人を乗せて嵐山の天龍寺に向かう。世界遺産である。

嵐山、渡月橋、百人一首で知られる小倉山などはかつて天竜寺の境内であった。この地はかつて嵯峨天皇の皇后檀林皇后が開創した檀林寺の跡地で、その後、後嵯峨上皇や亀山上皇の仮御所であった。その地に足利尊氏が夢窓疎石を開山として後醍醐天皇の菩提を弔うために建てたのがこの天龍寺である。

この何気ないわずか4行の記述の中には見落とすことのできない京都の歴史の力学が隠れている。「菩提を弔う」とは聞こえがいいが要は勝者が敗者の祟りを恐れたということである。勝者となったことに対して一抹の後ろめたさを感じているのだ。さらに最近出版された「京都ぎらい」の中で井上章一氏は菩提を弔う一方で敗者の朝廷から広大な土地という財産を勝者にくみする禅僧が自分たちのものにしたという構造を喝破している。さらに言えば時代が下り明治維新では、朝廷を奉じる新政府が天竜寺の広大な寺領を十分の一にまで削ってしまうのだ。恐ろしい歴史の力学は続いていく。

天龍寺の建立についてもう一度戻ると、朝廷の土地を寄進させるだけでは財源不足であった。そこで足利尊氏がとった政策は日元貿易の再開でありこれが天竜寺船の始まりとされる。造営費の捻出に成功し、天龍寺は無事完成し、五山の第2位とされた。のちに夢窓疎石を開山として相国寺が建てられたが、それまで第1位の南禅寺を五山の上とし、第1位、第2位は夢窓疎石開山の天龍寺、相国寺となった。現在京都で多数の塔頭を持つ禅寺の双璧は大徳寺と妙心寺である。この両寺とも五山の中には入っていない。なぜなのか。答えは簡単、夢窓疎石と対立していたそれだけのことなのだ。

嵐山は1月とはいえ3連休の初日とあってたいそうな観光客で、市営駐車場はすでに満車になっていた。恐る恐る天竜寺の境内に入り駐車場に向かったが駐車料1000円ということもあってか空きはあり無事停めることができた。

まず一番近くの法堂に行く。春秋の特別拝観期間を除けば土日しか入れない。加山又造作の雲龍図を見る。うーん見事だ。ぐるぐる回ってどこから見てもこっちを見ている。正面須弥壇には釈迦三尊像が安置されるが、失礼ながら雲龍図の方に圧倒されてしまう。

次は方丈だ。拝観受付は庫裡、台所である。大方丈や小方丈と棟続きになっている。ここで拝観料をまた払い靴を脱いで方丈に行き曹源池を眺めるのだ。ちょっとハプニングが起こる。私たちの前の外国人観光客(韓国人か中国人)があろうことかライダーシューズのような革靴を履いたままずかずかと板の間を上がって行ったのである。受付の女の子は慌てて追いかけていき、靴は脱いでと英語で注意していた。「大変だね」とねぎらうと「いつもこうなんです」と答えが返ってきた。

方丈の襖絵には雲龍が描かれているが、物外道人(もつがいどうじん)という富岡鉄斎唯一の孫弟子の作である。

小方丈から屋根つきの廊下を通って多宝殿にいく。後醍醐天皇の尊像を祀る祠堂である。ここから前の庭園を見ると美しい。

庭園めぐりは一旦入場した庫裡に戻り、靴を履いて庭園受付で拝観券を係りに見せて入ることになる。まずは龍源池の周りを見、そしてさっきの多宝堂の前から百花苑とよばれるさまざまな木々が植えられた庭を散策する。我々が訪れた時は暖冬が続いていたので、春に咲く花がどんどん早咲きしてくれていた。その日は空気が澄んでいたものだから望京の丘という高台に上ると遠く比叡山、大文字山まで見渡せた。さらに進むと巨大な硯石が立っている。明治32年鈴木松年が先代天井画の雲龍図を描いたときの記念で、60人の修行僧がすった墨を使って一気に描きあげたと伝わっている。

さあここで食事となるのだが、天龍寺に来て押さえておくべきところは精進料理「篩月」である。境内にあるので庭園拝観料500円をまず払わないとアクセスできないのだが、すでに庭を見てきたのなら大きな顔をして中に入ればいい。おすすめは一汁五采、3000円コースだ。

賀茂なすの田楽、肉太の賀茂なすの輪切りが十分油で炒められそこに味噌がのっているものだが、これはステーキじゃないかと思ってしまった。禅宗の坊さんが脂ぎっているのはこのせいだと納得してしまった。

ただこのあと夜には京料理を食べる予定がある。昼食はあっさりしたものがいいと考えて、総門にいちばん近い塔頭妙智院の中にある「西山艸堂(せいざんそうどう)」の湯豆腐を食べることにした。

安い飲み屋で湯豆腐を食べたことはあったが、奥丹とか順正とか湯豆腐だけを食べさせる店に入ったことがなかった。もちろんここも初めてだ。お寺の書院をそのまま客室にしたもので南向きの庭に面した6畳間を二間続きにして、円い卓袱台が5,6脚おいてある。卓袱台の中央は丸くくりぬかれそこには炭火を入れた七輪が置いてある。手をかざすと暖かい。懐かしい和式の暖房だ。付きだしに自家製ゴマ豆腐、小なすの田楽、湯葉の寿司などが出て、てんぷらは長いもの磯辺揚げ、湯葉としし唐の天ぷら、森嘉の飛龍頭の炊いたんと続く。メインの森嘉の嵯峨豆腐をつかった湯どうふが土鍋に入れられて出てくる。鍋の中央には醤油出汁の入った銚子も温まっていて、店の人が各自の小鉢に注ぎ分けてくれる。ネギやしょうがの薬味は好みで入れればいい。豆腐の量は3/4丁もあり、十分多い量だがこれにご飯と香の物までついてくる。お腹はいっぱいになり何より体が温まった。

当日実際の行程は清凉寺に行き、たまたま国宝釈迦菩薩立像が開放日でラッキーと喜び、次いで大覚寺に車を走らせ狩野山楽の襖絵に感心し、円派仏師明円作の五大明王像を愛でた。宿に向かう途中で京都らしいお菓子をということで真盛豆を求めて金谷正廣に立ち寄った。真盛豆は煎った丹波産黒豆に大豆粉を幾重にも重ね、青のりをかけたもので、北野大茶湯で豊臣秀吉がこれは茶事に合うと褒めたこともあり、今も茶人に好まれているという。金谷正廣の店は堀川通りを丸太町通りを越えて北に行き下長者町通りの細い一方通行の道へ左折して150mほど行ったところのコインパーキングに車を停めればすぐのところにある。

翌日、宿を845分に出で、妙心寺を目指す。A級京都観光の代表ともいえる京の冬の旅非公開文化財特別公開の企画に便乗するのだ。行くところはA級でも見方をD級にすればいいのだから。

妙心寺に隣接する第1駐車場は大型バス専用だから、道路を挟んだ向かいの第2駐車場にとめる。なんと駐車料無料だからびっくりするがうれしい。臨済宗の寺の特徴を俗に「大徳寺の茶面」、「建仁寺の学問面」「南禅寺の武家面」「東福寺の伽藍面」と称するが、当寺は「妙心寺の算盤面」といわれ寺院経営がしっかりしていて臨済宗一の巨大教団になったが、その一端を垣間見る思いだ。

南門から入りまず退蔵院に行く。ここは年中公開されていて、しかも午前9時には開いている。お目当ては国宝の如拙作「瓢鮎図」。ただし展示物はその複製。瓢箪でなまず(鮎)をとるという公案を絵にしたもの。将軍足利義持の命で五山の禅僧31人の画賛もつけられている。

書院の西側に狩野元信の作とされる枯山水庭園である国の名勝「元信の庭」があるが、通常公開の時書院には上がれず横から覗いて我慢しないといけない。余香苑とよばれる中根金作の庭園を見ることになる。水琴窟、しし脅し、陰陽の庭、瓢箪型の池泉、大枝垂桜、サツキ、フジの花、カエデと四季折々に美しい彩りを楽しめる。

次は妙心寺本院の法堂。ここは寺の人の案内でしか入れない。20分おきに案内は行われる。法堂に入ると天井の巨大な雲龍図(狩野探幽作)について案内の人から説明を聞かないといけない。次いで上を見ながら同じ速度でぐるりと1周しなさい、立ち止まっては後ろの人の邪魔になるからくれぐれも止まらずに、そして龍の見え方がどんどん変わるのを確認してくださいという。言われることはわかるけど70歳近くになって上を見ただけでふらつきが起こるものに等速円運動をしろとはちょっと無理な話である。昇り龍と下り龍と違って見えるのはよくわかったが。もちろん探幽の凄さも分かったが。

国宝妙心寺鐘も法堂の隅に置かれている。日本最古の鐘で文武天皇2年の作である。音色が雅楽の黄鐘調(おうじきちょう)に合うことから古来「黄鐘調の鐘」とその音色の良さをたたえられている。壊れる恐れがあるために今は鳴らすことができないが、かつて録音された音は聞かせてもらえる。

次いで案内人に連れられて重要文化財の浴室に行く。明智風呂といわれる。その名のいわれは次の通りだ。明智光秀が本能寺の変の後、形勢利あらずと自害する場を求めて叔父である当寺塔頭太嶺院の密宗和尚を訪ねたが、自害の翻意を促され、なにがしかの金子を和尚に委ねて帰って行った。その後小栗栖で最期を遂げるのはよく知られているが、3年後密宗和尚が光秀の菩提を伴うためにこの浴室を創建したという。

浴槽は蒸し風呂形式で、そのあと洗い場で3杯の湯を使うだけといういかにも禅僧の修行の一環だ。浴室の隣に浴室用の鐘楼があり、その鐘の音で禅僧たちは入浴という名の修行を始める時を知ったという。

1020分になった。特別公開の塔頭はもう開いている。玉鳳院に向かう。妙心寺は花園法皇がこの地にあった離宮を関山慧玄を開山に迎え禅寺にしたが、それがこの玉鳳院であり、開山堂である微笑庵(みしょうあん)もある。「麒麟図」「龍図」などの障壁画があり、枯山水の南庭は波形ではなくまるで畑の畝作りのような長方形であるのが珍しい。微笑庵には関山慧玄が祀られており、織田信長、武田信玄、武田勝頼らの墓があり、豊臣秀吉の子鶴松の御霊屋もある。

境内を出ようとすると牛石という表札があり、牛に見えなくもない石がある。関山慧玄が美濃の国にいた時花園上皇に招かれ妙心寺の開山をしたのだが、その時一緒に過ごしていた牛が別れを惜しんで涙を流しながら追いかけてきたという言い伝えに由来している。京の歴史は奥が深い。

続いて北門近くの天球院を訪ねる。12年ぶりの特別公開で、京狩野派の絵師山楽・山雪親子(養子だが)の華麗な障壁画が美しい。「竹虎図」、「梅に遊禽図」、朝顔と鉄線の花を描いた「籬草花図」など、金地に映える鮮やかで濃密な色彩と垂直の線や曲線を活かした画面構成が見事な金碧障壁画で、創建当時の絢爛豪華さを今に伝えている、という。精密複製画に置き換えつつあって、現物が展示されるのは今回が最後という貴重な機会だった。

伏見城の遺構血天井もこの寺にひっそりとあることはあまり知られていない。


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