D級京都観光案内 62 哲学の道
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なぜ今までこのテーマで書かなかったのか自分でも不思議なほどだ。「京都紅葉巡り」で、法然院を取り上げ、そこで西田幾多郎の歌碑にも触れ、安楽寺にもちらりと触れたので「哲学の道」はそれなりに紹介したつもりになっていたのだろう。 いやそれ以上に「哲学の道」をD級京都観光案内から遠ざけたくなることが1970年代に起こっていたのだ。当時、雑誌「an・an(アンアン)」「non—no(ノンノ)」を片手に若い女性たちが少人数で、今までのおっさんたちの観光旅行とは違うスタイルで小京都に、嵯峨野に、大原にと殺到したのだ。彼女たちはアンノン族と呼ばれ、哲学の道もそのターゲットになった。そして哲学の道はアンノン族に受けのいいような喫茶店やお店が乱立していったのである。哲学の道が自分たちのベースキャンプと思っていたまあ硬派の京大生にとって、わんさか押し寄せる若き女性たちにどう立ち向かっていいかわからずうろたえて、この場所を40年経っても無意識に排除していたに違いない。 まあこんな大げさな話を持ち出すところが貧相で硬派の元京大生の名残なのだが。思い出してしまったから、精神科医として分析して書かねばならない。 哲学の道は銀閣寺参道にかかる銀閣寺橋から、琵琶湖疏水に沿って若王子橋までの全長1.8㎞の散策路である。日本の道百選にも選ばれている。かつて京都帝国大学教授の哲学者西田幾多郎、経済学者河上肇がここを散策しながら思索に耽ったことからこの名がある。 京都の市街地は北に行くことを「上がる」、南に行くことを「下がる」という。京都では北が高く南に行くにしたがって低くなっている。したがって水の流れも必ず北から南に流れるものと決まっている。ところが哲学の道の横を流れる琵琶湖疏水は南禅寺の水路閣を通り、南禅寺トンネルをくぐって流れてくるものだから、南から北に流れるのだ。 疏水の流れに沿うように、私たちの散策も南から北に行くとしよう。南の起点には熊野若王子神社がある。京都三熊野神社の一つであり、御朱印には「京洛東那智」と書かれるように、熊野那智大社に対応する。ついでにいうと、熊野神社は熊野速玉大社(新宮)、新熊野神社は熊野本宮大社に対応する。 平安時代初期、真紹(しんじょう)が禅林寺(永観堂)を創建した時に鎮守社として祀ったのが由来とも、平安時代後期、後白河上皇が紀州の熊野権現を勧請したとも伝わる。境内にある梛(なぎ)の木は御神木で、京都府内で最も古い大木と書かれている。この葉で作ったお守りはすべての苦難を「なぎ倒す」ご利益があるという。 神社からさらに山の方に登って行く道がある。まっすぐ登る道と右に分かれる道がある。まっすぐの道を登ると、朱塗りの鳥居が見えてきて瀧宮神社の扁額がある。そばにある石の鳥居には本間龍神とある。さらに小川沿いに山道を登ると、千手滝不動尊の石の鳥居があり、突き当たる所に一筋の滝が落ち、その横に二童子を従えた不動明王の石像がある。 滑らないよう注意しながら道を分岐点までもどる。右に分かれる道は新島襄・八重の墓への参道とある。20分ほど山道を行くと同志社共葬墓地があり、その中に新島襄・八重夫妻、八重の兄・山本覚馬、徳富蘇峰らの墓、同志社関係の宣教師共葬墓、住谷悦治らの同志社共葬墓がある。 なお登っていった山は若王子山で東山三十六峰の一つである。 哲学の道を少し北に向かって進む。すぐ行ったところに疏水を挟んで、叶匠寿庵がある。京都茶室棟と名付けられたこの店では、菓子店としてのプライドを感じる甘味が楽しめ、ぜんざいやわらび餅は絶品だ。それ以上に季節限定のお弁当が運よく食べられることがある。場所が場所だけに食事時にふらっと入っても満席だと断られるのが常なのだが、時にはたまたま空いていてどうぞといわれることもある。そういう幸運なときは、この店の心憎い仕掛けも含めて料理を堪能しよう。 哲学の道を更に北に進もう。このあたりの風景の鉛筆画を描き、それを売って生業としている絵描きさんもいる。そこから下の街の方を見ると、瓦の美しい寺が見える。絵描きさんにあの寺はと尋ねると、光雲寺だと教えてくれた。 光雲寺は南禅寺の境外塔頭である。徳川秀忠と江の娘で、後水尾天皇の中宮として入内した東福門院の菩提寺として有名である。観光寺院としてのガードは固く、門には南禅寺禅センターの大きな看板がかかり、その左に小さく光雲寺と書かれていることでもわかるように、何年かに1度の特別公開の時しか拝観できない。しかもその時も庭園の拝観はできない。紅葉が絶景というのに。 光雲寺には江戸後期の医学者・中神琴渓の墓がある。中神琴渓は門弟3000人、内科ではその右に出るものがないと言われるほどの人気医者だった。近江の出身で、その子孫はきちんとその医業を受け継ぎ、いまも草津市で開業しておられる。たまたまその先生とはお知り合いになれたので、是非一度光雲寺の紅葉に連れて行ってもらいたいものだと思っている。 哲学の道を更に北に行き、疏水にかかる大豊橋を渡ると大豊神社にやってくる。東山三十六峰の一つ、椿ヶ峰の麓にあり、椿ヶ峰から湧き出るご神水で身を清め、本殿に参拝する。ただここで有名なのは、本殿ではなくその横にある大国社の前の狛鼠である.。向かって左のネズミは長寿を表す水玉(酒)を抱き、右のネズミは学問を表す巻物を抱いている。末社の愛宕社の前には狛鳶が、末社の日吉社の前には狛猿が鎮座している。境内には「夫婦梛の木(めおとなぎのき)」がある。このあたりの土地は梛の木にあっているのだろう。 哲学の道を北に進み、寺前橋から東に山の方に登っていくと霊鑑寺はある。南禅寺派の尼門跡寺院で、代々皇女が住職を務めた。谷の御所、鹿ケ谷比丘尼御所とも言われる。境内には後水尾天皇後遺愛の日光椿(じっこうつばき)があることで有名である。 書院入り口には白いパンパスグラスと赤いツルウメモドキをアレンジした立花が廊下にあり、天井からもつるされる。いかにも尼門跡寺院のたたずまいだ。中を覗くと狩野永徳・狩野元信・円山応挙の襖絵・衝立がある。書院内には皇室ゆかりの寺宝も多くある。庭園は池泉回遊式で、椿で有名だが、秋には高低差のある庭で紅葉の美しさが際立ち、緑の苔の上に落ちる散モミジもまた美しい。尼門跡らしい優しいしつらえがそこここに置いてあり、無粋な私でも足を止めた。限られた特別公開の時しか拝観できないのは残念である。 哲学の道から離れたまま、霊鑑寺から北に歩いていくと安楽寺の前にやってくる。 安楽寺は法然上人の弟子、住蓮と安楽が開いた念仏道場の草庵に始まる。後鳥羽上皇の女御姉妹の松虫・鈴虫が、上皇不在時にこの草庵に駆け込み、剃髪したことに上皇は怒り、住蓮・安楽を死罪とし、法然と親鸞は流罪となった(建永・承元の法難)。 流罪地から帰京した法然は、住蓮・安楽の菩提を弔い、一宇を建て住蓮山安楽寺と名付けた。後年現在地に移転した。境内には、住蓮・安楽の供養塔があり、少し離れて松虫・鈴虫の供養塔もある。 7月25日には「かぼちゃ供養」が行われ、参拝者には京野菜の一つである鹿ケ谷かぼちゃの煮つけが振舞われる。本尊の阿弥陀如来から「土用の日にかぼちゃを食べれば中風にならない」という霊告があったことから始まったという。鹿ケ谷かぼちゃは胴がくびれて、菊かぼちゃを上下に二つ重ねたような形をしていて、形の面白さから生け花や置物にもされる。味は淡白だがそう思って食べるとまずくはない。確かに抗酸化作用や降圧作用がありそうだ。当日は門前で鹿ケ谷かぼちゃを販売している。重いけれど買って帰って損はない。 安楽寺の門前から、さらに北に行くと法然院にたどり着く。法然院については「22. 京都の紅葉巡り」で詳しく案内しているので今日はスルーする。ただ山号「善気山」は東山三十六峰で椿ヶ峰のすぐ北に位置する善気山に由来することだけは押さえておこう。 哲学の道に戻ろう。西田幾多郎の歌碑があるあたりに特に多く植えられている桜を関雪桜と呼ぶ。大正・昭和の日本画家、橋本関雪の妻・米子によって植えられた桜なのでその名がある。 白沙村荘は橋本関雪が居宅として造営した邸宅と庭園であり、哲学の道の北端から少し西に入ったところにある。「橋本関雪記念館」として一般公開されている。庭園は広さ2200坪、関雪自らが設計した大文字山を借景として池泉回遊式の庭園である。石塔や大小の池の周囲に平安・鎌倉時代の石灯籠、石仏などの石造美術、約180点が配置されているが、素人の私には、え、こんなのそこから持ってきていいのと思ってしまったのも正直なところだ。 建物もすべて関雪の設計によるもので、存古楼(ぞんころう)は大作を制作するための大画室で、大文字山を正面から見ることができる。それ以外にいくつかの茶室、草庵が建てられている。 哲学の道はもちろん車など走れないが、一つ西に入った鹿ケ谷通りは哲学の道に沿うように走り、車も通れるのである。 銀閣寺道から鹿ケ谷通りに入ると、おしゃれなお店や最近できた店が一杯あるが、そんな中で根強い人気の店が、名代おめん銀閣寺本店である。人気がありすぎて特に外国人観光客が多くてなかなか入れない。 麺類に御所言葉風に「お」をつけて「おめん」とした京都発祥のうどん屋さんかと思ったら大違いだ。「おめん」は群馬県伊勢崎地方の麺類の郷土料理にその源を持つ。京都出身の女将が、伊勢崎で身に着けた家庭料理を、昭和42年から京都に里帰り、銀閣寺道近くで開店したのが始まりである。 甘辛く焚いたきんぴらゴボウ、胡麻、ネギや生姜の他、季節の薬味野菜が八種類、これをお出汁の中にたっぷり入れて、そこに国産小麦だけで作ったうどんを入れてつけ麺として食べるのがこの店のやり方である。 鹿ケ谷通りをさらに南に下がり、丸太町通の角にあるのが泉屋博古館(せんおくはくこかん)で、住友コレクションを中心とした美術展をひらいている。住友家第15代当主住友春翠が明治中期から大正期にかけて収集した中国の青銅器をはじめ多くの美術品を中心に、住友春翠の鹿ケ谷別荘を昭和45年から美術館とし展示するようになっている。南禅寺、永観堂、哲学の道と、ものすごい観光客の喧騒の中から少し離れて、本来の東山の静かな環境の中で美術鑑賞ができる場所である。 鹿ケ谷通りをさらに少し下がると、日の出うどんがある。カレーうどんが有名で、マスコミでも頻繁に取り上げられるのはご承知の通りである。告白すると私はまだ行ったことがない。主義としてマスコミで有名な店はいかないなどという反骨精神があるわけではなく、ただ単に駐車場がない、長い行列を待つのは嫌だというだけの理由である。 でも本心はめちゃめちゃ行ってみたい、カレーうどんが大好きだからである。時々覗いて、行列ができていなかったら行ってみるとしよう。 |
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