D級京都観光案内 35 東福寺と塔頭荘厳院
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大分市で心療内科黒川醫院を開業する黒川達郎先生という方がいる。大分市出身で、近畿大学医学部を出て産婦人科医として下関市立病院に勤め、その後漢方医として開業し、今年心療内科診療所を開設されたという少し変わり種の先生である。
漢方を勉強するかたわら、江戸時代の先哲たちの業績を調べ、その遺跡や墓を訪れ、若いころから物書き好きが高じて、先哲たちを主人公にした小説を書くまでに至ったのである。吉益東洞と中西深斎という師弟もそれぞれ小説の主人公になっている。
東福寺塔頭荘厳院に吉益東洞の墓とそれに向かい合う形で弟子中西深斎の少し小ぶりの墓があった。黒川先生はそれこそ日本漢方の聖地と考え、幾度となく参拝しておられた。
ところがある年その墓地を参拝した黒川先生の目に映ったのは東洞の墓だけで、深斎の墓は忽然として消えていたのだ。必死であたりを探すと他の無縁仏の墓と一緒にまとめて集められているのが見つかったのだ。
荘厳院は無住職の塔頭で、その管理をしているのは「桔梗の庭」で有名な東福寺塔頭天得院住職・爾(その)英晃さんである。爾さんはまだ若いのに東福寺法務執事、東福寺派法務部長も務める偉いお坊さんである。
熱血漢の黒川先生は爾住職に対し日本漢方の聖地が危ないと熱弁をふるい、貴重な先哲の墓を守るために両者力を合わそうと意気投合、平成29年6月の第118回日本医史学会に二人そろって登壇し、医史跡・墓の保存を学会の問題として取り組もうと訴えたのである。
フロアーでその話をホーっと思って聞いていた男がいる。その年日本医史学会に入会して初めての学術総会に参加していた私である。なんで私がそんな総会に出ていたのかいぶかしく思う人がほとんどだろう。じつはこのD級京都観光案内といたく関係を持つのである。京都検定1級合格者はそのご褒美に京都産業大学日本文学研究所の特別客員研究員の資格がもらえ、京都観光・文化に関する1つのテーマでの研究の指導をしてもらえるのだ。
D級京都観光案内21「鷹峯と医学の源流」の中で書いているように、鷹峯には野間玄琢と藤林道寿という2人の御典医がいて、それぞれが薬草園を持っていたのである。その薬草園が鷹峯特産の野菜のルーツだと言われているが、そのことを証拠立てる古文書は存在するのだろうか。2つも薬草園があったにもかかわらず後世の医学に貢献できなかったのなぜなのか。2人の御典医という華々しい経歴が明治以後の京都の医学・医療に受け継がれた形跡がないのはなぜなのか。
これらの疑問をテーマに特別客員研究員に応募しようかと考えたが、医学関係の古文書、江戸期の医学にかかわる古文書の解読方法を教えていただける教官はちょっとおられないようだ。そこでまず日本医史学会に入っている先生方と仲良くなって、それから研究方法をご教示願うのが手っ取り早いだろうと考えて、日本医史学会に入会していたのである。
京都観光春の特別公開で「天得院 桔梗をめでる特別拝観」というのがあるのを見つけた。私の机の前の製薬会社がくれたカレンダーの5,6月の写真は桔梗のある庭で右下に天得院と書いてあった。もうこれは何かの啓示である。よし天得院に行こう、そして一緒に荘厳院で東洞のお墓参りをしようと、東福寺を目指すことにした。
東福寺は臨済宗京都五山の第4位、伽藍面と言われる広大な境内と伽藍を持っている。開基は九条道家、鎌倉時代初期の朝廷の権力者であり、九条家の菩提寺としてそれまでの権力者藤原氏の氏寺の法性寺の大伽藍の後に、円爾(聖一国師)を開山に迎え東福寺を建てた。寺名は、規模は東大寺に教行は興福寺にならって東福寺とされた。
紅葉の季節の東福寺にはマイカーで行くなどもってのほかである。駐車場が空いていないどころか近辺の道路は進入禁止や一方通行の規制が張られ、寺から逆に遠くに離れないと仕方ないのだ。電車で行くとなると京阪かJRの「東福寺」で降りて、徒歩10分かけることになる。京都市バスでも行けるはずだがどの系統のバスに乗ればいいか難しそうだ。事前に調べておこう。
紅葉や観光シーズンでなければ、東福寺の西を南北に走る伏見街道から中門に入れ、さらに進んで日下門から境内にどんと入り、指示に従い本堂前を右折して。禅堂と東司(禅僧用の便所)の間の空き地に車を停めることができる。
三門は現存する禅寺の三門としては日本最古のものであり、国宝である。特別公開の時には内部入ることができ上層の釈迦如来、十六羅漢像を拝観できる。
三門から続く本堂(仏堂)には本尊釈迦三尊像が安置され、天井画は堂本印象作の蒼龍図である。3月14日~16日の涅槃会の時には、通常非公開の大涅槃図の御開帳がある。画僧明兆によって描かれた大涅槃図には猫が描かれている。釈迦の死を悼んで弟子や人々のみならず、あまたの動物たちも嘆き悲しむ様が涅槃図には描かれているのだが、罪業深い存在として猫は入っていないのである。ところが明兆が涅槃図を描こうとすると一匹の猫が絵具を咥えてくることが度々で、明兆は絵具を咥えて来る功徳により罪業消滅したと図の中に猫を描き加えた言い伝えられている。世間の人は「魔除けの猫」とお守り代わりに祈ったという。
正月に供えられた餅を細かく砕いてあられにして、涅槃会の時仏様への献花や供物、花供御(はなくご)へのお返しとした習わしがある。「はなくご」という音とあられの形状から「仏様の鼻くそ」と俗称されるようになり、今では誰でも涅槃図を見た後「花供御(はなくそ)」1袋300円で買い求めることができる。
本堂から北の常楽庵の間の谷に架けられた橋廊が通天橋でありここからの紅葉の景色が京都一といってもいい紅葉の名所である。
この廊下の東に方丈がある。方丈は僧侶たちの居住スペースである。方丈の東西南北の4面の庭は作庭家・重森三玲作で、各面ごとに趣を変えた「八相の庭」と言われていた。2014年に国指定の名勝「東福寺本坊庭園」と格上げされている。
庫裏、禅堂さらに日本最古の禅宗の便所、東司(とうす)がある。中央通路を挟んで左右両側に円形の便壺が並び、僧侶たちがしかるべき時にのみ一斉に用を足すと考えると、頻尿症の私なぞとても修行はできないと考えてしまう。
東福寺には25の塔頭がある。
方丈からさらに奥に行ったところに塔頭龍吟庵はある。東福寺第三世住持・無関普門が晩年ここで暮らした。無関普門は南禅寺の開山とされる名僧である。方丈は日本最古の方丈建築であり、国宝である。庭は重森三怜の手になり、南庭(無の庭)、西庭(龍門の庭)そして東庭(不離の庭)からなる。
境内南西に六波羅門(重要文化財)は立つ。六波羅探題の遺構と伝えられ、鎌倉前期の建築である。そこを出て南に下がると正覚庵がある。筆供養を行う(11月23日)ことから筆の寺として知られる。境内にはいくつかの筆塚があり、初夏の頃なら庭一杯に咲くネジバナが可憐である。
さらに南に行くと波心の庭(重森三怜作)で有名な光明院がある。この庭園は州浜形の枯池に三尊石組を巧みに配し、背後に、サツキやツツジの刈込、モミジを配した枯山水の庭である。
六波羅門に戻り、西に行くと南門に至るが、その手前に荘厳院はある。初めに書いたようにここは無住職の塔頭である。門は固く閉ざされている。しかしその横のくぐり戸をそっと開けて中に入ることができる。無住職にもかかわらず荒寺なんかではない、庭もこざっぱりと手入れされている。こりゃあ維持管理は大変だとよくわかる。奥に行くと確かに吉益東洞先生の墓と、一連の無縁仏の墓としてまとめられた中西深斎先生の墓がある。
隣の塔頭・桂昌院も拝観できるみたいだが、天得院へ急ごう。境内西側の塀沿いに日下門のところまでやってくる。そう、車で進入して来た門だ。そこを少し戻った北側に天得院はある。
天得院は「桔梗の寺」「花の寺」とも知られ東福寺5塔頭の寺格を今に伝えている。第227世住持・文英清韓は豊臣秀吉、秀頼の五山の学僧として寵遇され、方広寺の鍾銘を撰文したが、「国家安康、君臣豊楽」の文が徳川家を呪うものといちゃもんをつけられ、大坂冬の陣を招き豊臣家が滅ぶきっかけとなったが、天得院もまた取り壊された。
現在の堂宇は江戸中期天明年間に再建されている。山頭火の自由律俳句の師である萩原井泉水が当院に隠棲したことに因んで句碑も立っている。
桔梗の庭をめでた後、予約しておけば精進料理も堪能できる。紅葉の時期には紅葉と苔の庭をめでながらの昼食や、ライトアップされた庭を見ながらの夕食を楽しむこともできる。もちろん要予約だ。
天得院の向かいにあるのが芬陀院(ふんだいん)で、方丈の南庭を作ったのが雪舟と伝えられ、雪舟寺と通称される。東庭は重森三怜作の枯山水庭園。一條昭良好みの茶室図南亭(となんてい)があり勾玉の手水鉢が置かれている。細かい話だが京都検定頻出事項である。
日下門前の道を北に行くと月下門に来る。その左手に霊雲院がある。由緒ある「遺愛石」のある書院前庭は重森三怜が「九山八海の庭(霊の庭)」としてよみがえらせた。さらに寺号霊雲をモチーフにして作庭された「臥雲の庭」もある。
そのすぐ北隣の塔頭が同聚院である。五大堂に丈六の十万不動明王坐像が
まだまだ見るべき塔頭はあるのだが、今日はここまでにして帰途に就こう。日下門から伏見街道に出て、一方通行の北に向かって車を走らせると200mほど行ったところに、大きな「地酒」という垂れ幕を出している町屋風の酒屋、上野酒店がある。伏見の松本酒造がこの店用に作った「伏水街道 純米酒」や斎藤酒造の「英勲 大吟醸 生原酒」、大和葡萄の「無添加 ぶどう酒」を思わず買ってしまった。というのもこの店の主人がとても好感が持てる人なのだ。それ以上にアルコールに私が好感を持っているというのもあるけれど。
大事なことを忘れていた、本年3月11日荘厳院で吉益東洞・中西深斎合同法要が営まれる。発案者は黒川達郎先生で導師は天得院爾英晃住職である。この私もお二人と近しくなった関係で列席させていただける。医師会の先生方で東福寺の拝観がてら法要に出てみようという方がおられれば、どうぞお気軽にお申し出ください。きっと京都の持つ奥深さを感得していただけること、請け合いである。
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