D級京都観光案内 29

宇治は都のたつみしかぞ住む

   

  百人一首第8番の喜撰法師の歌「わが庵(いほ)は都の辰巳しかぞ住む 世をうぢ山と人はいふなり」にあるように宇治は京都市の東南に位置する。江戸時代の川柳に「お宅はと聞かれたように喜撰よみ」と茶化されているようだが、高校1年の冬休みの宿題で百人一首を全部覚えて来いと言われたときに、覚えやすいということで有難い一首だった。

宇治に電車で行く場合、JRで京都まで行き、奈良線に乗り換えて宇治まで行くか、京阪特急で淀屋橋から中書島まで行き宇治線に乗り換えて宇治まで行くかになる。

渋滞時期でなければ車で行くほうがはるかに便利だ。名神で大山崎JCから京滋バイパスに入り宇治西インターで降り、側道をしばらく走り左折すると宇治川左岸の堤防道路に出る。左に宇治川を見ながら走ると宇治橋が見えてくる。この景色は素晴らしい。宇治川の川の流れも季節によって趣を変え、橋のはるか向こうに見える山々の様子も時々で違ってくる。

宇治橋は大化2年奈良元興寺の僧道登によって架けられた日本最古の橋といわれている。その後洪水により流されたりで何度も架け替えられ、現在の橋は平成8年に完成したものである。橋のなかほど上流側に三の間と呼ばれる張り出した空間がある。橋の守り神の橋姫が祀られていたところであり、豊臣秀吉は茶の湯のためにここから宇治川の水を汲み上げさせたという。宇治十帖のゆかりで作者紫式部の像が西詰の「夢浮橋ひろば」にある。

このように宇治橋は宇治の歴史と観光の中心的要素が凝縮されてあるスポットで今日の旅はこの宇治橋とのつながりを発見して行く旅になるだろう。

宇治に来た、どこを見るか、そりゃあもう二つの世界遺産、平等院と宇治上神社だろう。まず平等院を目指す。宇治橋西詰の信号から、徒歩ならそのまま平等院参道を行き北門から入ればいい。5月上旬なら見事な藤棚の美しさが目に飛び込んでくるはずだ。車の場合は広い道(あがた通)を直進し、縣(あがた)神社のところで左折して南門のほうに回ることになる。前に広い駐車場がある。1700円である。健脚派はここに車を置いて一日宇治を回ればよい。

源氏物語の光源氏のモデルとされる源融の別荘がこの地にあった。その後藤原道長のものになり宇治殿と呼ばれた。それを引き継いだ息子の藤原頼通は寺院にした。それが平等院である。釈迦の死後2000年が経ち天変地異は相次ぎ人心は乱れるという末法思想が信じられていたので、手っ取り早くこの世に極楽浄土を作ってしまえと阿弥陀堂(鳳凰堂)が建立されたのだ。

境内に入るのに拝観料が必要だが、鳳凰堂を拝観するにも別途拝観料が必要でしかも拝観時間が指定されていて境内全体の拝観はちょっと分断される。しかし鳳凰堂内部の拝観は充実感があり、不便なことはやむを得ない。

朱塗りの二つの橋を渡り翼廊で靴を脱いで中堂に入ると中央に丈六の阿弥陀如来坐像がある。中学生の頃から教科書で何度も見、定朝の作であり、寄木造の手法と穏やかで優美な和様彫刻を完成させたと本の中だけで教えられてきたものが本当に目の前にあるというのは感動的で何か圧倒される。1000年近くもこんないい状態で保存されているのも驚きである。

阿弥陀如来坐像は国宝であるが、その頭上につるされる木製透かし彫りの天蓋も国宝に指定されている。中堂周囲の壁には52体の雲中供養菩薩像があり、雲に乗っていろいろな楽器を奏で、舞を舞う姿はなるほど極楽はこうなのだという感じだ。51体が国宝であるがそのうち26体は後で訪れる鳳翔館展示されている。この中堂にある26体は模刻品である。

中堂の扉や壁には九品来迎図(生前の行いによって決まる9通りの来迎を描いている)、極楽浄土図が書かれており国宝に指定されているが、原画は落剝がひどく鳳翔館に保存され、復元模写の扉に取り換えられている。

池の方に目をやると池岸には白い小石が敷かれ州浜となっている。発掘調査から推定される創建当時の庭園の様子に近いものになっているという。

鳳凰堂を出てその前に広がる阿字池の周りをゆっくり進む。左手に藤棚があり、さらに進むと鳳凰堂を正面に見る位置に来る。中堂の前扉は開いているので阿弥陀如来を拝み見ることができる。池の向こうが彼岸の西方浄土となるよう鳳凰堂は南北方向に建てられ、阿弥陀如来は真東を向いて坐っておられるのだ。この庭園の様式を浄土式という。浄瑠璃寺庭園もこの様式である。

中堂の屋根の両側には1万円札の裏側に描かれている金色に輝く1対の鳳凰像が据えられている。これは複製品で、本物の国宝の方は鳳翔館で間近に見ることができる。

さらに阿字池の周りを鳳凰堂の南の翼廊のところまで来ると鳳翔館の入り口になる。平安時代作で天下の三名鐘の一つである国宝の梵鐘、十一面観音立像も置かれ、鳳凰堂の内部の彩色を再現した展示室もある。

鳳翔館を出ると精巧な複製品がつるされた鐘楼があり、南門に戻る。鳳凰堂以外の伽藍は、浄土院、最勝院、羅漢堂、観音堂があり、観音堂の横には扇の芝がある。以仁王が平家追討の令旨を出し反平家勢力を結集しようと図ったが計画は頓挫し、以仁王に従う武将は源頼政だけになり、奈良興福寺に助けを求めるため平等院まで落ち延びた。これを追う平家と宇治川をはさんで対峙し、頼政は宇治橋の橋板を外すなどして抵抗したが(宇治川の戦い)、形勢ただただ悪くなり結局平等院のこの地で軍扇を敷き自刃したという。77歳と当時としては驚くほど高齢だった。

扇の芝には源頼政の辞世の歌「埋れ木の花さく事もなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」の歌碑も置かれている。ただ個人的に好きな頼政の歌は「深山木のその梢とも見えざりし 桜は花にあらわれにけり」である。不遇をかこつ自分に対する応援歌のように思えるからである。

平等院南門を出て宇治川のほうに行ってみよう。交通量の多い府道から分かれて宇治川のほうに進むと川沿いの狭い小道と交差する。この平等院と宇治川にはさまれた小道は「あじろぎの道」と名付けられた散歩道である。「あじろぎ」は宇治川の漁で使われた装置「網代木」に由来する。百人一首第64番 「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらわれわたる瀬々の網代木 藤原定頼」と歌われ、蜻蛉日記、更級日記にも網代木を見たという記載があり、源氏物語の中でも薫君が匂宮を誘って網代木見物に行く様子が描かれているという。網代木はそれほど古来より宇治の名物だったのだ。あじろぎの道には辰巳屋、鮎宗などの老舗の食べ物屋が並んでいる。

眼下に屋形船だまりを見、ああ7月から9月はこの船に乗って鵜飼見物をするのだろうなあと心の中でうらやましく思いながら宇治川内の島、塔の島にかかる喜撰橋を渡る。

 塔の島の名前からもわかるように、ここには巨大な十三重の石塔が建っている。鎌倉時代、元寇2度目の来襲の弘安の役の5年後、奈良西大寺の僧叡尊が、宇治橋の修築とともに宇治橋の供養と宇治川での殺生禁断のため建立した。洪水により川中に埋没していた時期もあったが、再興され現在の姿がある。橘橋を渡り北の橘島に行くと宇治川先陣の碑がある。ここから宇治川東岸に行く橋は朝霧橋であり、東岸の畔に宇治十帖モニュメント、匂宮と浮舟が小舟に乗る像がある。宇治神社の赤い鳥居前でもある。宇治神社は後で訪れることにして、喜撰橋まで戻る。

 喜撰橋からあじろぎの道の続きを南に行くと料理旅館花やしき浮舟園がある。ここで食事をしてもいいが、ここが右翼に暗殺された科学者であり労農党代議士であった山宣こと山本宣治の両親が開いた店であると知って驚く。山宣は治安維持法改正に反対したため暗殺された。

 当時治安維持法改正は一般人に取り締まりが及ぶものではないと説明されていた。その欺瞞性を暴こうとしたがゆえに山宣は暗殺された。今、共謀罪はテロを企む悪い奴らの取り締まりのためで一般人には影響ないですよなどと説明されている。その嘘を見抜くためにも山宣のお墓にお参りしよう。

 南門前駐車場からもと来た道を縣神社のほうに戻る。ほんの少し手前に信号がありそこを左折する。結構急こう配の坂道を左に莵道小学校をみて登り、二股に分かれたところを右に進むと山宣の墓地が見えてくる。駐車場もあり、そこに車を停める。墓地の中央あたりにひときわ目立つ自然石の「花屋敷山本家の墓」がある。裏には両親妻子とともに宣治の名も刻まれている。暗殺される前日の演説「山宣ひとり孤塁を守る だが私は淋しくない 背後には大衆が支持してゐるから」が刻まれている。

 なんと胸打たれる言葉だろう。なんと励まされる言葉だろう。我が身を振り返ると結局いつも保身に走っていた弱い人間であったようで恥入るばかりだ。

 車に戻り、坂道を下りおり、縣神社にやってくる。境内はそう広くないのだが、創建は平等院より古く大和政権の行政単位の縣と関係すると思われ、平等院創建時はその総鎮守社とされていた。宇治橋西詰から大鳥居をくぐって平等院の南門にやってきたのだが、その大鳥居は縣神社の参道の入り口を表すものだったのだ。その大きさからかつての縣神社の権勢をうかがい知ることができる。良縁、子授け、安産の御利益があるという。

 65日の例祭、あがた祭は「暗闇の奇祭」として有名で、午後11時から翌日午前1時にかけて明かりを消され真っ暗な中を梵天と呼ばれる依代(よりしろ)をみこしに担ぎ御旅所から境内にそしてまた御旅所へと運び、途中激しく差し上げやぶん回しを行い激しく走り回る勇壮な祭りである。

 縣神社の向かいにはシンプルな茶団子屋さんがあった。中村菓舗という。ネットで評判を見るとパンチ不足という。中村藤吉本店のほうが有名で、ネットでの評判もいいのだが、いろんなデパートに出店しまくっているのでちょっと味が落ちてきたとの辛口批評はわが女房のものである。

 神社に戻ろう。宇治橋西詰の大鳥居を少し入ったところに橋姫神社はある。瀬織津媛(せおりつひめ)が祀られているが、橋姫と同一視されている。宇治橋三の間にあった祠がここに移されたものだ。宇治橋の守り神であるが縁切り・悪縁切りの御利益もあるとされる(縣神社と真逆)。なぜ縁切りの神とされるのかは源平盛衰記の中で橋姫が妬ましい男女を呪い殺す話が記されているからという。平家物語には嫉妬に狂った娘が貴船神社に鬼になることを祈願し宇治川に21日間つかれば鬼になれるとのご神託を得、頭に松明をつけた鉄輪をかぶり、顔に朱を塗り、口に松明をくわえ宇治川につかり、念願通り鬼になりその男を殺したという。この鬼になった娘も橋姫に同一視されていったのだろう。

 宇治十帖の第1帖は「橋姫」である。主人公薫君が見初めた女性にあてた歌に因んでつけられている。縁切り神の橋姫ではないのでご安心を。宇治十帖ゆかりの古跡が、宇治橋を中心とした宇治川の両岸に10ヵ所作られているが、「橋姫の古跡」はこの橋姫神社にある。

 宇治川西岸のスポットは大体回った。紙面はもうない。東岸のスポット巡りは次回に回すとしよう。


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