D級京都観光案内 30

宇治は都のたつみしかぞ住む 2

   

  

 前回に引き続き宇治を訪れる。宇治川東岸のスポットを巡ろう。宇治橋東詰めの茶店「通圓茶屋」はなんと平安時代末期から歴史を持っている。元祖は古川宇内という武士で前号に出てきた源頼政の家臣であった。晩年隠居し通圓政久と名乗り宇治橋東詰めに庵を結んだが、それをこの店の創業としている。20年後「以仁王の乱」のときには主君源頼政のもとに駆け参じ(宇治川の合戦)、平等院で頼政の後を追って死んでいる。

 その後子孫代々「通圓(後には通円)」を名乗り、宇治橋の橋守をし、奈良街道を通る人々に茶を振る舞い商いとして、宇治茶を売り、茶屋を営んできたのだ。だからここでお茶を買ってもいいし、茶団子を食べてもいい。

 第十代、第十一代通圓は豊臣秀吉の命で宇治川から水を汲み上げ伏見城に運ぶ大役を果たしており、その時に使った水をくむ「釣瓶(つるべ)」は秀吉が千利休に命じて特に作らせたもので、今も家宝として秀吉の五七の桐の紋とともに大切に保管されているという。

 通圓茶屋から宇治川東岸沿いの道を上流に向かって行くと、「しゅばく」という行列のできる蕎麦屋がある。石臼挽き手打ち十割そばとうたっている。いつも言っていることだが私は並んで待つのが大嫌いである。したがってこの魅力的な「石臼挽き手打ち十割」がうたい文句通りかどうか未だ確認していない。

 道をもう少し行くと「橋寺 放生院」という石碑とこぢんまりとした門が見え、石段が続いている。この寺の歴史は古い。推古天皇12年、聖徳太子の発願で(太秦広隆寺も建てた)秦河勝の開基になるという。前号にも書いたように僧道登が宇治橋をかけ、その管理を任されたことから橋寺といわれた。さらに鎌倉時代僧叡尊が再興し宇治橋の供養と宇治川での殺生禁断のため大放生会を営んだことから、放生院と呼ばれるようになったのである。

 本堂には本尊地蔵菩薩、不動明王、阿弥陀如来、釈迦如来、弁財天の像があり、見ごたえがある。だがこの寺の一番の宝は日本三古碑の一つ宇治橋断碑(重文)である。そこには宇治橋が架けられたいきさつが書かれているものだが、一度洪水で流されたものが江戸時代に近くの土中から半分だけが発見され、欠けている部分を補修再建し、この寺で管理している。境内の鍵付き建物の中に展示されており、その建物を囲む柵にも鍵がかかっている。本堂とは別途拝観料を払うとこの鍵を開けて見せてもらうことができる。

 境内には宇治川を見渡すところに「橋かけ観音」像があり駒札には「恋のはしかけ、極楽のはしかけ、合格のはしかけ」とあるが、宇治橋断碑に比べなんとも俗っぽいものであるか。気を取り直して次へ行こう。

 すぐ開運不動尊という立派な石碑が建っていて、放生院よりもっと簡素の作りの石段の奥に小さな本殿が見える。不動明王は分かりやすい見栄えのする仏像だから拝観してみようと尋ねてみると、なんと秘仏で「私がここに(嫁いで)来てまだ一度も公開されたことがない」というのが御朱印を書いてもらった住職夫人の言だった。

 仕方がない、石段を下りると「さわらびの道」という石碑も立っている。川沿いの道から離れて宇治神社、宇治上神社の前を通り、源氏物語ミュージアムに至る石畳の小径につけられた名前である。

宇治神社へはさわらびの道からもいけるが、赤い鳥居は宇治川沿いの朝霧橋東詰め前にある。車の駐車場は鳥居前を少し進んで山側に入るとあり、シーズンでもまず停められるだけの広さはある。

宇治神社は次に訪れる宇治上神社とともに宇治郷全域を氏子区域とした神社で、創建の年代は明らかではないが、第15代応神天皇の離宮の跡地で、宇治離宮明神と称せられていた。明治維新後上下二社に分かれ、上社を宇治上神社、下社を宇治神社と呼び分けるようになった。

創建の経緯には悲しい物語がある。応神天皇は秀才だった末の皇子 莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)を後継者に指定して崩御した。莵道稚郎子は、「兄が天皇になるべきだ」として、宇治の離宮に移り住むが、兄の大鷦鶺皇子(おおさざきのこうし)(後の仁徳天皇)は、「先帝の決めた事」と、弟の即位を望んだ。兄弟の譲り合いが3年間続き、天下が乱れ始めたため、弟の莵道稚郎子は、宇治川に入水自殺してしまう。兄の仁徳天皇が、この離宮 「莵道の宮(うじのみや)」に、弟の霊を祀ったことが、二つの神社の始まりである。

祭神は莵道稚郎子、ご利益は「学問の祖神、開運」とある。ウサギが神使とされ、ウサギの手水がある。これは莵道稚郎子が兄に皇位を譲り河内の国から当地に来た時に、道に迷った皇子をウサギが先導してくれたことに由来する。

学問の神様だから七五三参りの11月中は本殿前に大きな知恵の輪が置かれ、ここをくぐると子供は知恵を授かり健やかに育つと言われている。残念ながら認知症対策にもなるとは書かれていない。

さわらびの道に沿って少し行くと宇治上神社がある。正面に見える拝殿は寝殿造り様式で国宝である。鎌倉時代前期の元離宮の建物を移築したもので、優美な姿形をしている。奥にある本殿は現存する最古の神社建築(年輪年代法で平安時代後期1060年代の建立)で国宝である。五間流造檜皮葺で覆屋の内部には一間社流造の内殿三社が納められ、中央に応神天皇(父)、向かって右に莵道稚郎子(弟)、左に仁徳天皇(兄)が祀られている。本殿前の狛犬も古い。

この二つの国宝建築物を有することから、宇治上神社は世界遺産に登録されている。なお宇治神社の本殿は鎌倉時代の建造物で重要文化財である。

拝殿右側に祠があり、そこに宇治の七名水の一つ、桐原水が湧き出ている。後の6つの名水はなくなっている。

さわらびの道をさらに進むと与謝野晶子の歌碑があり、宇治十帖古跡「総角」がある。(宇治神社から宇治上神社の間にも古跡「早蕨」があった。)ここから仏徳山の展望台に続く山道もある。

さわらびの道をさらにほんの少し行くと宇治市 源氏物語ミュージアムにやってくる。源氏物語を宇治市の一つの看板にすることで宇治の町おこしにしようと考えて作られた展示館だ。ひらかた大菊人形が好きだった人は見る価値があるだろう。まあそんなところだ。

もと来た道を戻り宇治川沿いの道を上流に向かって行く。川岸沿いに食事処がある。味はともかく宇治川および対岸の景色を見ながらの食事はいいものだ。

福寿園宇治工房ではお茶や菓子の販売、喫茶、お茶づくり体験からお茶の楽しみ方指導、さらには隣にある朝日窯の人の手ほどきで茶器づくりにも挑戦できる。暇があれば楽しめそうだ。

お寺好きの私はこの店の前を山側に行く道路に沿って行く。朝日山恵心院の山門が現れ、「恵心僧都説法の遺場」の石碑がある。恵心僧都は「往生要集」を著わし、地獄極楽が具体的にどんな所かを分かりやすく説いた人、源信のことである。源信がこの寺を再興したので恵心院と呼ばれている。源氏物語宇治十帖の中で宇治川に身を投げた浮舟を救った(比叡山)横川の僧都は源信がモデルといわれる。そういう謂れがあったのだ。この寺は花の寺ともいわれ、四季折々にいろいろな花が楽しめるという。

さらに進むと興聖寺の総門が見えてくる。総門からまっすぐ山門に通じる200mの参道「琴坂」は両脇を流れる谷川のせせらぎが琴の音に似ていることから名づけられた。道の両側には桜、ヤマブキ、カエデが生え、桜や紅葉の名所である。「春岸の山吹」は「宇治十二景」に入っている。

山門は中国式竜宮造りである。この寺の起源は曹洞宗の開祖道元が伏見深草に宗派初めての寺として興聖寺を開創したことに始まる。しかし比叡山からの弾圧を受け、思うように布教できないことより、道元は相模の国の武将波多野義重が地頭として所領していた越前国志比荘を寄進してくれたことにより永平寺を開創し曹洞宗の本拠としたのである。京都に取り残された興聖寺は衰退荒廃していったが、時代は下がり江戸時代初期、淀城藩主永井尚政は万安英種(ばんなんえいしゅ)を招聘し現在地に建立したのである。

話はそれるが、永井尚政の弟永井直清は高槻城藩主になっており、名君とたたえられ、高槻市野見神社内の永井神社は永井直清を祀ったものである。

元に戻ろう。興聖寺の山門をくぐり、正面にある本堂に参る。本堂の前の庭は見事である。本堂には伏見城から移築した血天井がある。京都検定の定番である。初めて興聖寺を参拝した時にはちょうど大きな法事が行われていたため、本堂に入ることもできず、忙しいからという理由で御朱印すら貰うことができなかった。

二度目に興聖寺を訪問した時は、特別の法事もない時だったもので、御朱印も貰え、どうぞどうぞご自由にという感じで本堂をはじめ寺の諸堂を廊下伝いに見て回ることができた。裏山の朝日山をそのまま庭に取り入れ、さらには借景とする姿、堂に囲まれた庭園はそれぞれ趣を異にしている。

いろいろな仏像があり、それは秘仏とされず拝観することもでき、座禅を組む時に使うであろう座布団のようなものもそれを使う僧の位に従っておいてある。我々参拝客が物珍し気に覗いたりうろうろするのに僧たちは何も影響されず淡々と仕事に励んでいる。多分これが曹洞宗の修行そのものなのだろう。何か凄く爽やかな気分になれた。

観光ではありません、宗教する心を持ちなさい、騒々しくしてはいけません、写真を撮ってはいけません、文化財です、柱に寄りかかってはいけません。京都の立派なお寺や神社を訪れるとすぐ注意されてしまう。大きなカメラを持っていると、撮影ご遠慮ください、荷物はまとめてそちらにおいてくださいといつも目の敵にされている。半分被害妄想だけれど半分真実だ。

興聖寺ではそんないやな思いは全くしなかった。これもきっと道元禅師の高徳の反映なのだろう。私は死んだら、曹洞宗のお坊さんにひっそりと送ってもらいたいものだ。でももうちょっと待ってほしい。京都D級観光案内をしないといけないところはまだまだ残っているのだから。


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