未完のツバメ日誌 |
5年前の5月、クリニックが入っているビルの入口のエレベーターホールの壁にツバメが巣を作った。エレベーターが開くと自然とその巣が目に飛び込んでくる、そんな位置だ。開業してまだ2ヶ月、クリニックに来る患者さんはまだまばらけれど、ツバメ君がやって来てくれたとうれしい気分になった。 「ツバメが巣を作ると店は繁盛すると言いますよ。」患者さんがいい迷信を教えてくれる。悪い気はしない。巣のそばを通るたびにしばし観察させてもらった。程なく何羽かの子ツバメが生まれ、これがまたピーピーとかまびすしい。いつもいつも四角の大きな黄色い口をあけていて、そこへ両親のツバメたちがせっせせっせと食べ物を運びつづけるおなじみの光景が繰り広げられる。 子ツバメたちは着実に大きくなり、頭頂部のうぶ毛がぬけ落ちる頃には急に青年ツバメ然となり、凛々しさが漂うようになる。そしてその日がやって来る。青年ツバメたちは一羽一羽飛んでいく。まさに巣立ちである。親子で卒業を喜ぶ姿など見られない。青年ツバメたちは二度と巣に戻ってこないのである。取り残されて哀れと親ツバメたちを思う私の心は、私自身が子離れできていないことを示しているのだろうか。 私は高校の時漢文で習った白居易のツバメの詩を思い出していた。確か自分の息子が家から出て行ってしまって嘆く老人に、白居易がツバメの巣づくりから子育てそして巣立ちの有様を示し、いつでも子どもは親を見捨てるようにして独立するものだよと諭すものだったと理解している。 高校生の頃はまあこんなものかと思っていた。しかし精神科医になってみて、この白居易の詩はなかなか興味深いのである。ツバメがいとも簡単にやってのける子育て、そして親離れ子離れ、これが人間様にはなかなか難しいのだ。 子育てで悩む若いママはうつ状態になってやってくる。わが子を虐待してしまい悩んでくる母親も多い。親離れできない一方親に暴力を振るい支配する青年、自立を焦り苦しむ若い女性、母子関係の葛藤から摂食障害になった女の子、子育てに無関心で子にかかわれない父親、子どもたちがすべて独立してしまってうつ状態になる母親。 ツバメを見てごらん。ヒントになるよ。何度も口からでかかった。でも飲み込んできた。具体的にどうヒントにしたらいいのですか?患者さんからこう問い返されたら、うんと詰まってしまう。言葉でいってしまうと何か教訓めいて治療にはなじまない。ツバメにはできるのにあんたには出来ないのかと患者さんを責めるように聞こえそうだからである。 毎年5月になるとクリニックのある箕面駅前にはツバメがやって来た。私の期待をよそにツバメたちはクリニックのあるビルの入口には巣を作ってくれなかった。私はただ白居易の詩を思い出しながら近所にあるツバメの巣を眺めるばかりだった。 ところが今年の5月、5年前と同じ場所に夫婦のツバメが巣づくりをはじめたのだ。そうだ、ツバメの巣づくりから子育てそしてツバメの巣立ちまでの様子をカメラに収めよう、それをクリニックのホームページhttp://homepage2.nifty.com/tmclinic/に載せようと思い立った。写真のほうがはるかに私の言葉より説得力があるだろう。 新しいデジカメを買い換えるいい口実がわが女房に対しても出来た。320万画素の今度のデジカメは、3世代ほど前のデジカメとは大違いだ。5月1日から毎日せっせと写真をとった。そしてその日のうちにツバメ写真日誌としてホームページに載せることを日課とした。すぐ連休に入ったが、休みの日にも自宅からクリニックに通い写真だけはとった。日誌を欠かすわけにはいかないから。 私にはもう一つしなければいけないことがあった。白居易のツバメの詩をどこか本から探し出すことである。ツバメの子育ての段階ごとに詩の対応する部分をあわせて載せることが目的だったからである。ところがこれがうまくいかないのだ。私は今狭いマンションに住んでいる。収納を第1に本は多く平積みでしまっている。白居易の詩が載っている本ぐらいどこかにあると思うのだが見つけ出すのは困難だ。しからばと近所の本屋に探しにいったが、ツバメの詩どころか漢詩を載せている本すら置いてないのである。 こういう時にはインターネットが便利だ。「白居易」と「燕」で検索をかけてみると中国の有名な詩人の略歴と詩及びその訓読が詳細に書かれたページが見つかった。私の探していたツバメの詩もそこにあった。「燕詩示劉叟」という題だとも分かった。 早速これを引用させてもらおう。このページの作者は誰だろう。きっと大学の漢文の研究者か高校の漢文の先生だろうとそのページの源流をさかのぼると意外なことに群馬県太田市の産婦人科開業医松本先生のページにたどり着いたのだ。恐る恐る松本先生に先生のページの引用の許可を請うメールを送ったところ、1時間もしないうちにどうぞどうぞという返事が来た。さらに1時間するとまた松本先生からメールがきて、ツバメに関する漢詩にはこんなのがありますよと4,5編の詩をご教示くださったのだ。 「先生は本当に産婦人科の開業医でしょうね?」という失礼な私の質問に対し、「産婦人科は待ち時間の多い職業で、いつもじっと待機しています。この細切れの時間を使っているうちの漢詩のホームページになりました。」とあった。そうなのだろうが凄い先生だ。 これで白居易の詩の準備も出来た。毎日ツバメ君たちの奮闘振りをデジカメに取り、ホームページに載せていく作業が続いた。巣は順調に大きくなっていき完成した。夫婦のツバメが揃って巣のあたりを飛ぶことも増えた。卵を温めているらしいツバメの姿も長く見られるようになった。かわいい子ツバメたちの写真を載せるのはもうすぐそこだった。 予想外の出来事が起こった。巣のそばの床の上に、卵の黄身と思われる液体が落ちていたのだ。大きさから考えてツバメの卵が落ちて砕けてしまったと思われる。誰がそうしたかは分からないが。ツバメ夫婦がいないのを見計らって巣の上に鏡を差し込んで巣の中を見る。確かに卵は1つもない。もうがっかりだ。誰だこんなことをしたのは。 ツバメ日誌に燃える私は「卵は割れて落ちた」という事実を否認した。「黄色かったけれどあれはツバメの卵じゃない。ツバメはまだ卵を産んでいないのだ。」「割れてしまったかもしれない。でもツバメはまた卵を産んでくれるだろう。」 朝や昼にツバメが巣にいるところを見かけるのはめっきり減ってしまった。しかし夜診を終えて帰る時、ツバメは巣ごもりしてくれていた。ツバメの写真をとって載せ続けた。 しかしついには夜もツバメの姿を巣の中に見つけることは出来なくなった。主から見放された巣だけが淋しく存在していた。ツバメ写真日誌は未完のまま中断せざるを得ないことになってしまった。 思えば患者さんへの励ましのメッセージとしてツバメ君の奮闘振りを日誌にしようとした。しかし、そら早く卵を産め、かわいい雛を見せろ、何卵が途中でだめになった?とあまりに一喜一憂してしまう私の態度は翻って不妊に悩む夫婦にとってはつらいメッセージになってしまったろう。われわれの力の及ばない深い自然の摂理と理解するほうがいいだろう。 ツバメ日誌は今年は未完になったけれど、また5年先ぐらいにはツバメ君がやってきてくれて完成目指して挑戦できるだろう。それまでの間、偶然にも知り合えた松本先生が教えて下さったツバメが出てくる漢詩を勉強しておくことにしよう。診察室から外を眺めると、子育て真っ最中のツバメたちが優雅な飛行を見せている。 |
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