続D級京都観光案内 11 太秦は「日本のハリウッド」
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太秦は難読地名の一つである。「うずまさ」と読む。京都市右京区にあり、南は(梅宮大社のある)梅津、東は天神川をほぼ境とし、北には花園、常盤、鳴滝があり西は嵯峨野に続く地域である。京都検定ではよく取り上げられる二つの大きなテーマがある。一つは渡来氏族である秦氏が様々の技術工法を用いて開拓開発し、ひいては平安京の成立発展に大きく寄与したこと、もう一つは昭和の時代、映画撮影所が林立し日本映画の黄金時代を語るにはこの地を外せないことである。この古代史と現代史が入り混じるちょっと変わった味わいの太秦を訪ねてみよう。
大きな寺社などでは駐車場があるが、少し街中に入ると空いたコインパーキングも見つけにくい事があるので車で行く場合は要注意だ。いつもと趣向を変えて嵐電(京福電鉄嵐山本線・北野線)を使って案内しよう。阪急京都本線の大宮駅が嵐電四条大宮駅と、西院(さいいん)駅が西院(さい)駅に連絡する。JR京都駅からは京都市営地下鉄烏丸線、東西線と乗り継いで太秦天神川駅で嵐電天神川駅に連絡する。JR嵯峨野線の太秦駅は嵐電帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅のすぐそばである。逆の嵐電嵐山駅には、阪急嵐山駅から歩けばよく、JR嵯峨野線の嵯峨嵐山駅からは嵐電嵯峨駅が近くである。
四条大宮から西に向かい蚕ノ社(かいこのやしろ)駅で降りる。少し戻ったところに石の大鳥居があり、それをくぐってまっすぐな道を行く。200mほど進むと立派な石の社名標「木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社」がある。その横にある由緒書の看板には、大宝元年(701年)以前から祭祀されていた延喜式内社であると記されている。「木嶋の地に鎮座する天照御魂神の社」という意味で、学問の神であり祓いの神でもあるとある。
蚕養(こかい)神社(蚕ノ社)は本殿右側の社殿、との案内も記されている。養蚕、織物、染色の守護神である。
渡来人の集団である秦氏は、まず大和の地に移り住んだが、その後各地に散開する。山背国葛野郡(当地)、山背国紀伊郡(伏見区深草)、摂津国豊嶋郡、河内国讃良郡(寝屋川市太秦)等で土着し、渡来時にもって来た技術技能を生かし、その地域を繁栄させた。
蚕ノ社は秦氏が養蚕、織物、染色の技術をもってこの地で繁栄の基礎を作った証の神社である。
神明鳥居をくぐり境内に入る。舞殿、拝殿があり本殿がある。その右の社殿が蚕ノ社だ。
本殿の西に進むと、水が枯れてしまっていることが多いが、元糺の池と称する神池がある。3本の石柱が島木と貫によって3方向の鳥居を構成している三柱鳥居(みばしらとりい)があり、その中心にある組石に神座が建てられている。三方から礼拝できるわけだが、何のためにいつ建てられたのかは不明のままである。この三柱鳥居は京都三珍鳥居の一つとして京都検定頻出である。他の二つは京都御苑にある厳島神社の唐破風鳥居と北野天満宮の境内末社
伴氏神社の鳥居である。
かつて神座の下からは泉が湧き出て神池を作っていた。身を清める行場であり、今、下鴨神社で行われる「足つけ神事」の原型と考えられている。下鴨神社の叢林は「糺の森」といわれるが、嵯峨天皇がこの神池周囲の叢林の呼称を現在の下鴨の地に遷したため、「元糺の森」「元糺の池」と称するようになったという。
山背国の2大豪族は秦氏と賀茂氏である。秦氏の神霊の場が賀茂氏の神霊の場に遷ったということは二つの豪族の密接な関係を意味するのだろう。さらにこの考えを補強するのは、下鴨神社の祭神、玉依姫が、上流から流れきた丹塗矢を飾って休むと懐妊し上賀茂神社の祭神、賀茂別雷命を生んだが、丹塗矢の御神霊は向日神社の祭神火雷神であると考えられるが、一説には秦氏の守り神、松尾大明神であるともいう言い伝えもある。
蚕ノ社駅の東に大日本印刷の広大な工場がある。ここは戦前東宝映画の撮影所があったところで、その跡地が印刷会社の工場になっている。包装事業部技術本部とあり、社史には1958年日清食品「チキンラーメン」の袋を印刷とある。個人的な話になるが、父のやっていたちっぽけな出版社もたまにはこの大会社で印刷を引き受けてもらうことがあり、60年前の高校生の私は校正刷りの受け渡しとかでこの大印刷会社にやってきたことを懐かしく思い出すのだ。
嵐電の次の駅は「太秦広隆寺」だ。駅名にあるように駅から降りるとすぐに広隆寺の楼門がそびえたつ。素敵な仁王像が立っている。両側の石標は、右に「太秦広隆寺」、左に「聖徳皇太子殿」とあり、右側の案内板には写真もつけて「国宝第1号 弥勒菩薩像」の拝観案内が表示されている。このことでも分かるように広隆寺の一番の売りは「弥勒菩薩半跏思惟像」であり、美しくも思索にふけるこの姿は、JR東海「そうだ、京都、行こう」平成8年の夏のキャンペーンで、「仏様に対してこういう言い方もなんですが、きれいだなぁ」と紹介されるほどなのだ。
秦氏の族長の一人であった秦河勝は、大和王権にも深くかかわり聖徳太子のブレーン的存在だった。その功により秦河勝は「弥勒菩薩像」を聖徳太子から譲り受けることになる。その像を祀るために秦河勝は蜂岡寺を創建した。これがのちに広隆寺となったのである。「広隆寺縁起」によると聖徳太子の死後、その供養のため建立されたといわれる。火災などにあい一時廃れたこの寺を再興したのは空海の高弟で秦氏出身の道昌である。道昌はまた嵐山の渡月橋を最初に架け、法輪寺に虚空蔵菩薩を安置もした。秦氏が得意とした治水・灌漑の技を使い、桂・川岡・向日の荒地に水を引き田畑を開拓して「行基の再来」と称された。
広隆寺の境内は広く、楼門から薬師堂、能楽堂、地蔵堂、講堂、太秦殿、本堂である上宮王院太子殿とあるが、聖徳太子を祀るこの本堂も含めどのお堂にも内部まで入ることはできない。桂宮院本堂(国宝)は境内の西側、塀で囲まれた一画にあり、聖徳太子像を祀る堂で法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、原則非公開でその外観すら見ることができない。
本堂の前に拝観受付があるが、800円で拝観券(もし広隆寺の無料駐車場を利用したなら帰りのこの券を提示する必要がある)を購入し、新霊宝殿の諸仏や寺宝を拝観することになる。
2体の弥勒菩薩像(前述の「宝冠弥勒」と「泣き弥勒」)を含め計6点の国宝仏像、多数の重要文化財の仏像、神像がぐるりと館内を取り巻く姿は圧倒されるばかりだ。最近暗いところでは少し目が見えにくくなってきた私にとって、もう少し照明が明かるければいいのになあと思うのだが、文化財保護の立場からはそういう訳にはいかないだろう。これを逆手にとって、薄暗いからこそ仏像の神秘性に触れることができるのだと考えよう。
コロナ禍でのマスク美人ではないが、はっきり見えなかったりぼんやりとしか見えない部分は、われわれの脳は知らず知らずに自分好みの像として認識するのだ。私も初めてここで弥勒菩薩を見た時、その美しさに打ち震えるだろとの期待を裏切られた感じがしたが、しばらく眺めていくうちに世間でいう神秘性をなんとなく感じられたように思う。薄暗いがゆえに自分が見たいと思う像に見えてくるものなのだろう。
広隆寺を出て、太秦の交差点を北東に行く広い通りの歩道を行く。150mほど行った左手に石の鳥居が見える。大酒神社である。広隆寺桂宮院の鎮守社と聞いていたので広大な境内を想像していたが、こぢんまりとしたたたずまいにはびっくりだ。宮司さんも常駐していないようだ。でも鳥居前にある由緒書を読むと太秦で秦氏の果たした役割がよく分かるのだ。京都検定の格好の副読本だ。
大酒神社は延喜式にすでに記載される古社である。元は大辟(おおさけ)神社といった。「大辟」と称したのは、秦始皇帝の14代子孫の功満王が漢土の兵乱を「避け」この地に来朝し平和なことに気に入って始皇帝の神霊を勧請したことによる。「大避」から「大辟」神社となり、「災難除け」「悪疫退散」の信仰が生まれた。
功満王の子弓月王(ゆんずのきみ)が百済から2万人弱の民衆を従えて帰化した。弓月王の孫秦酒公(はたのさけきみ)は養蚕をよくし、呉国より来た呉服女(くれはとり)、漢織女(あやはとり)により絹綾の類をおびただしく織り出して、朝廷に絹綾をうず高く積み上げるほど献上した。大王は喜び、「埋益(うずまさる)」という意味で酒公に「禹豆麻佐(うずまさ)」の姓をたまわった。絹綾の織り出しに貢献した呉服女、漢織女の神霊も同時に合祀した。機織のみならず、大陸及び半島の先進文明を我が国に輸入するにつとめ、農耕、造酒、土木、管絃、工匠など産業芸能発達に大いに功績があった。
以上の由緒書が表すように、神社に立つ石標には「蚕養機織管絃楽舞之祖神」とある。「管絃楽舞之祖」はどうしてだろう。聖徳太子が秦河勝に命じて諸人を喜ばすための演芸をさせそれが「申楽(さるがく)」の始まりとなり、河勝の子孫がその芸を守り伝えたとされる。能の金春流はその始祖を秦河勝としている。
神社の呼び名であるが、秦酒公を祀ることにより、「大辟」を「大酒」に改めたという。
由緒書はさらに続く。秦酒公の六代目の孫が、秦河勝、603年広隆寺建立。701年子孫秦忌寸都理(はたいみきとり)が酒の神様でもある松尾大社を創立。713年子孫秦伊呂具(はたいろぐ)が伏見稲荷大社を建てた。
先にも書いたが、秦氏一族が京都盆地の開発発展にいかに重要な役割を果たしたか、そしてそれが794年桓武天皇の平安京遷都に大きな貢献をしただろうことがよくわかる。太秦は京の都づくりの原動力になっていたのだ。
さて京都三大奇祭として今宮神社のやすらい祭、由岐神社の鞍馬の火祭そして太秦の牛祭がある。この牛祭は、元来は大酒神社の祭礼であったが、後に広隆寺境内で行われるようになっていた。奇妙なお面をつけた摩陀羅神が、赤鬼と青鬼に先導され牛にまたがって練り歩き五穀豊穣、悪魔退散が祈願される珍しい祭だった。だが残念のことに平成15年より中止され再開の予定はないという。
大酒神社のすぐ隣に悟真寺がある。境内に入ると立派な石碑がある。「円山応挙誕生地」とある。ちょっと驚いた。私の記憶では応挙は亀岡市穴太寺の近くで生まれたはずだ。その近くの金剛寺で小僧時代を送ったはずだ。どうなっているのだろう。応挙は死後、当時四条大宮西入にあった悟真寺に葬られた。悟真寺が当地に移転し、応挙を始め円山一門の弟子たちの墓も移転し、同時に「円山応挙生誕地」の石碑も移転してきたようだ。
さらに進めば東映太秦映画村があるが、この解説は飛ばして、より「日本のハリウッド」らしいところを案内しよう。誌面がないのでそれは次号に。
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