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続D級京都観光案内 12

太秦は「日本のハリウッド」2

嵐電「太秦広隆寺」駅から太秦交差点をこえて30mほど行ったところから府道を離れ西側一方通行の道が嵐電「帷子ノ辻」駅下まで続く。この通りが大映通り商店街である。

大映通り商店街のホームページには「戦後の夜店通から始まり、大映撮影所とともに発展し、昭和の人情と映像文化の未来が同居する、不思議で楽しい商店街です。」との紹介がある。

通りの入り口には横書きの「大映通り商店街」の表示板が左右に建てられている。表示板は映画フィルムをデザイン化したもので褐色をコンセプトカラー

にしているようだ。表示板の上には2台の映画カメラをデザイン化したものが据え付けられている。もちろん色は褐色だ。

 通りの両側には昔の角型ランプの形をした街路灯が並ぶが、ランプの上には褐色の映画カメラが置かれ、支柱には縦書きの「大映通り商店街」と商店街のシンボル「大魔神」が刷り込まれた褐色基調ののぼりが取付けられている。

 道路に目をやると、両側は褐色に塗られ映画フィルムをデザイン化したようにコマ穴が白く抜かれているのに気がつく。映画への思い入れの強い商店街なのだ。

 太秦広隆寺駅から西に向かって歩いてみよう。少し行った右手に「京つけもの もり 太秦本店」がある。「京つけもの もり」はいろんなところに出店しているが、本店はここだったのだ。本店だけにいろいろ種類も多く、珍しい漬物も売っている。食べやすくできている。ただ無添加漬物派の私は「松尾大社店」の無添加しば漬けが大好きで、この商品が本店にないのは残念だ。

 少し行った右手にコインパーキングがあり、それを越えて斜めの四つ辻の南西角に「映画の神様 三吉稲荷」がある。小さな境内だが、石の鳥居、それを囲む石柱の玉垣があり、何よりも朱色地に白で染め抜いた「映画映像傑作祈願 三吉稲荷神社 心願成就 開運招福 商売繁盛 産業興隆 芸能上達」の派手な幟が何本も林立しているのでよく目立つ。

 鳥居をくぐるとすぐ左手に「日本映画の父 牧野省三先生顕彰之碑」がある。その裏面には建立発起人の映画関係企業、孫にあたる長門裕之・津川雅彦兄弟、新藤兼人、吉永小百合、高橋英樹、さらには由美かおるなど私でもよく知っている映画人の名が並んでいる。

 西陣の芝居小屋を経営していた牧野省三は映画撮影を依頼され、真如堂で日本初の時代劇映画「本能寺合戦」を監督する。その後、尾上松之助を主演に映画監督・制作をして大人気を博し、等持院内に撮影所を作っている。等持院には「日本映画の父 牧野省三」の銅像が立っている。マキノプロダクションを作るなど日本映画の発展に貢献したが昭和450歳の若さで早逝している。

 本殿は2つの社殿からなり、左に「三吉明神」、右に「八幡大神」の額がかかっている。鳥居横の駒札によると、この附近一帯は竹藪に覆われており、「三吉稲荷」と「中里八幡」が別々の場所にあった。昭和3年太秦日活撮影所が開設されるとともにまわりの竹藪も宅地化されていき自然破壊も進んでいったため、昭和5年日活の有志により二つの祠をこの地に新築したとある。

 駒札はまだ続ける。その後太秦には大映、松竹、東映と次々撮影所が建てられることになる。その縁をもって「三吉稲荷」「中里八幡」は通称「映画神社」と呼ぶことにする。(19987.25

 社殿の右側には絵馬かけがある。映画神社の絵馬らしく、映画撮影の時に使われるカチンコをデザイン化した絵馬である。佐々木蔵之介さん、山田洋二監督、さらには大森一樹監督がかけた絵馬があり、とてもうれしくなる。

 三吉稲荷の大映通りの向かいには「三吉みたらし」というみたらし団子店がある。一度は食べる価値のあるみたらし団子のようだが、このお店、営業時間、開店日などは不定で、「幻のみたらし団子」として知られている。ネットでは、いつ行っても閉まっていたが土曜日の午後5時ころにはたまたま買うことができたという書き込みもある。もちろん私もまだ買えたことはない。

 少し西に行き青果店(ここのおじさんはいい人で方向を間違えてうろうろしていた私に正しい方向を教えてくれた)の手前を左に(南に)曲がる。150mほど行くと、右手に大映太秦撮影所の跡地に建てられた太秦中学校の正門がある。正門の少し手前にグランプリ広場と名付けられた一画があり、金色のオスカー像と金獅子像が並び立っている。その前には地球儀の上にいる大きな鳥の塑像がある。

 「映画『羅生門』国際賞受賞記念碑」に書かれた説明によると、昭和25年大映京都撮影所で撮られた「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを、アカデミー賞でも外国映画部門特別賞を受賞するなど、日本映画を広く世界に知らしめた。そこで金獅子像とオスカー像をモチーフとした記念碑を作り、その周辺はグランプリ広場として親しまれていた。しかし、大映が倒産し撮影所も閉鎖され、住宅地に変わってしまいグランプリ広場はなくなり、記念碑なども散逸した。その後、再び太秦の映画文化を残そうという人達によって、この大映京都撮影所の跡地に、オスカー像と金獅子像とを復元したとある。

 また角の青果店のところに戻り西に向かって進む。「アララ」というドリンク・ランチの店がある。私は行ったことはないがネットにはキムタクがよく利用する店とある。

 隣に太秦温泉という銭湯がある。外観からはちょっと銭湯とはわかりにくいが確かに「ゆ」という暖簾がかかっている。深風呂、浅風呂、ジェットバス、気泡風呂、スチームサウナ、水風呂があるという。

 大映通り商店街の向かいにひときわ目立つ建物「うずキネマ館 キネマ・キッチン」がある。大映通り商店街を訪れる人たちのコミュニティスペースと位置付けられているだけに、年代物の映写機や映画キャラクターのフィギュアなどが飾られ、古い映画雑誌やスチール、貴重な台本を閲覧できるようになっている。テーブル席もあれば窓側にも厨房側にもカウンター席がある。厨房側に は黒板がぶら下がり、メニューが書いてある。私は肉野菜炒めをメインに小さなおばんざい三品とご飯、味噌汁のランチ980円を注文し、うん、うまいと食べた。まあ雰囲気が昭和レトロそのものだ。店の外からそれに店内の様子を写真に撮りまくりランチを注文した人がいる。初めての人かと思ったらどうもリピーターのようだ。窓際のカウンター席に座りのんびりとお持ち帰りのお弁当が出来上がるのを待つ人もいる。素敵な街のキッチンだ。

 少し行くとレンガ造りの壁でマホガニー製の扉の「COFFEE 萩」がある。U字型の重厚なカウンターと4人掛けのテーブルがある。カウンター席に座ってコーヒーとハンバーガーセットを注文する。サイホンで淹れたコーヒーは「萩 HAGI」の刻印がある特製カップで出てくる。内装はレンガもカウンターもテーブルも椅子も褐色で落ち着いた雰囲気をかもし出している。昭和を思い出させてくれる喫茶店だ。

 「萩」のマスターは乙訓中学3年の時の私の同級生なのだ。しかも卒業写真では隣り合って写っている。身長順に並ばされたので、ほぼ同じ身長だったのだろう。彼が喫茶店のマスターをやっているなんて全然知らなかった。たまたま昨年(2023年)10月、クラスの同窓会があり62年ぶりに再会したのだが、またまた偶然隣同士の席になった。その時に大映通り商店街で喫茶店をやっている話を聞いたのだ。グーグルマップで検索するとこの「萩」がそれに違いないと思われた。それで今年の2月、初めて「萩」を訪問したのだ。

 この店を出してもう50年近くになるという。大映京都撮影所が活気あふれたころは、この大映通りを行き交う人も凄く多く、お昼時にはもう次々に来るお客で大変だったみたいだ。お店にやってくる映画関係者、俳優も多かったようだ。時代は移り、この頃は閑散としている。それでもこよなくこの店を愛する俳優さんも多いみたいだ。最近では松本幸四郎、「ラ・マンチャの男」で有名な先代松本幸四郎、現在の松本白鳳の息子さんもこよなくこの店を愛しているみたいで、文藝春秋令和65月号のグラビアページに、この店の焼きめしを頬張る姿が、マスターの後ろ姿とともに写っている。

 「萩」を出てさらに西に進む。「太秦マーケット」という懐かしい響きの大きな看板の出ている店のところで左に(南に)折れる。まっすぐ行くとマンションの入り口に行きつくが、そこにひっそりと「大映京都撮影所跡地」という三角形の石碑が立っている。

 もと来た道を「太秦マーケット」のところまで戻り、先に進む。すぐ右手に昔ながらの装いそのままの「珉珉 京都太秦店」がある。私が京都の学生時代は、餃子といえば「珉珉」だった。懐かしさに涙が出るくらいだ。

 少し行った左手にカフェとベーカリーの「The Yellow Deli」がある。オーストラリア滞在中に知ったパンを作って売っているお店だ。不思議なことに土曜日が定休日だ。

 さらに進むと左手に「めし」という暖簾のかかった「麺類・丼物 美濃屋」がある。4人掛けのテーブルが並ぶ昭和そのものの食堂だ。タレントさんたちがよく利用したそうで、藤田まことは肉うどんをいつも頼んでいたらしい。店の前のショーケースにはお惣菜もいろいろ並んでいてテークアウトできる。もちろんきっちり買って帰って晩御飯のおかずにした。

 また西に行くと、スーパーフレスコの前の広場に高さ5mの大魔神像がある。昭和41年大映京都撮影所で制作された映画「大魔神」のヒーローそのものだ。映画イベント用に製作され、ずっと倉庫に眠っていたこの像を「キネマのまち太秦のシンボルに」と修復、2013年からすっくと立っているのだ。

 この前の道をまっすぐ行くと府道の帷子ノ辻交差点に着く。私たちは、太秦でのもう一つの大きな見どころ、古墳時代後期末の7世紀頃築造された京都府最大の横穴式石室「蛇塚古墳」を目指そう。大魔神像から少し戻って、南に時に西にと5分ほど歩くと、住宅街の真ん中に巨大な積み石の巨大建造物が現れる。「蛇塚古墳」である。説明板によると、墳丘封土はなくなっているが、周囲の住宅区画から類推するに前方部30m、後円部45mの前方後円墳であるという。ぐるっと回りこむと「国史跡」の標識があり、横穴式石室の開口部から石室の奥まで覗きみることができる。石室全長は17.8メートルにおよび、明日香村の石舞台古墳にも匹敵する規模である。石舞台古墳のようには石室内に入ることはできないが、蛇が一杯棲んでいたのでその名がついたといわれるから入れなくても満足だ。

 こんな古墳が住宅街の真ん中にあるというのもなんとも珍しく、見学できてよかったと思うのだが、被葬者はいったい誰なのだろう。このあたりで一大勢力を張った秦氏の首長クラスの人だろうということはまず間違いない。秦河勝ではないかとも言われるが、そうだという確証はないようだ。

 太秦の地は古代現代といろんなロマンをかきたててくれるところに間違いない。

 


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