「分からない」ことを分かること |
「お鍋を見ててね」スパゲッティーをゆでていたお母さんが台所を離れないといけなくなった時、小学5年の娘の恭子ちゃんに頼んでいきました。用事を済ませて戻ってきたお母さんはお鍋からお湯が噴きこぼれているのを見てびっくりします。「お鍋を見ててといったでしょ。」と恭子ちゃんを叱ります。恭子ちゃんは怒られたことにきょとんとしています。「私、お鍋をずっと見ていたよ。」 恭子ちゃんはお母さんの行った「お鍋を見る」という言い方の言外の意味「お鍋が噴きこぼれるとか何か起こったらすぐお母さんを大声で呼んでちょうだい」が理解できなかったのです。文字通り「お鍋を見ていた」のです。 学校の先生が言いました。「次の時間は校長先生が授業を見学にこられます。みんなは普通にしていていいんですよ。でも、ちゃんとしてね。」恭子ちゃんは悩みます。「普通にする」ってどうするの?「ちゃんとする」ってどうするの? 恭子ちゃんは先生の言う「普通に」「ちゃんと」という抽象的な表現、他の子どもたちにとってはごくごく分かりやすい表現が理解できないのです。 恭子ちゃんは社会的対人交流の苦手な子です。言語的コミュニケーションにおいても上の例のような難しさを抱えているのです。これは私たち普通といわれる多数派が字義通りを膨らませたあいまいさを持った文脈で理解し合っていけるけれど、あいまいさの理解の獲得が出来にくい子供たちもいるのだといえるのです。 恭子ちゃんの発達を支援するためには恭子ちゃんが分かる説明や指導をすることが必要です。 |
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