D級京都観光案内 12

山科にも行かなくては 2

  随心院から勧修寺までは車で行けばすぐだ。ところで勧修寺、「かじゅうじ」と読むが、わたしはずっと「かんしゅうじ」とばかり読んでいた。でも仕方ないことだった。地名の「勧修寺○○町」は「かんしゅうじ」と読むのだから。

醍醐道を名神高速道路が跨ぐように交差するところあたりに勧修寺はある。境内に入るときわめて閑静だ。勧修寺は醍醐天皇が若くして亡くなった生母・藤原胤子を追善するために建てた門跡寺院だ。胤子の両親、藤原高藤と宮道列子はこの地で出会い見染め合い一緒になろうと約束し、3年を経て男は心変わりせずにその約束は実現され結婚し、そして胤子が生まれたのであると今昔物語にはあるそうだ。どこに物語性があるのかと疑う話だが、平安の御世で男が3年間も心変わりをしないというのは稀有のことだったのだろう。光源氏を引き合いに出すまでもなく男どもは恋に忙しかったに違いない。

源氏物語の「明石の君」は紫式部がこの話を参考に書いたのではないかといわれる。紫式部と夫はともには高藤と列子の子孫だそうだ。

書院は重要文化財で国宝勧修寺繍帳(現在は奈良国立博物館所蔵)のほか多数の寺宝を所蔵する。庭園は氷室の池を中心とする池泉回遊式庭園。夏にはスイレン、カキツバタ、ハスの花が咲き観光客でにぎわう。勧修寺は京都一水鳥の多い寺とも言われている。池の横に立つ観音堂の屋根に立つ鳳凰に誘われたわけでもないだろうが。

平安時代、12日にこの池に張った氷を宮中に献上し、その氷の厚さでその年の五穀豊穣を占ったという。それがこの池の名の由来である。

書院前庭には水戸光圀より拝領の勧修寺型燈籠がある。親、子、孫の三代の梅が同居する「臥竜(がりゅう)の老梅」というのもある。

勧修寺を後にしてもと来た阪神高速8号京都線山科インターを目指す。岩屋寺への指示標識に従って左折し進むとほどなく寺前の駐車場にたどり着く。曹洞宗岩屋寺と石塔が立っている。石段を昇りいったん広いところに出るが、そこに大石良雄隠棲跡という石碑が立つ。討ち入りまで身をひそめていたところで、討ち入り成功後すべての家屋敷を岩屋寺に寄進したという。さらに石段を上がると本堂があり、大石良雄の念持仏であった不動明王が祀られるが秘仏で拝観はできない。木像堂には大石良雄はじめ四十七士の位牌、遺品が安置されている。さらに境内には大石良雄邸の材で建てたという茶室「可笑庵」もある。

本堂の横の窓口で御朱印を貰おうと呼び鈴を押すと私と同じ年恰好の女の人が出てくる。住職の奥さんかと思っていたが、ネットで調べるとここは尼寺という。となると住職その人だったのかもしれない。御朱印を書いてもらいながら、「内蔵助はここから祇園の一力に通ったのですねえ。」と気楽な調子で聞いてみた。京都検定3級で浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」の七段目の舞台となった、四条通と花見小路通が交差する角にあるお茶屋は何か?という問題が出されているのだ。大石良雄の命日320日には一力亭で「大石忌」の法要が営まれるという。

ところが奥さん(住職?)の答えは明快だった。「それはお芝居の世界です。本当は伏見に行ったんと違いますか。」確かに山科から一力まで通うのは遠すぎる、いかに昔の人が歩くのが平気だとしてもだ。

では伏見に遊郭があったのか。豊臣秀吉が隠居所として伏見城を建て、それが大地震で崩壊した後も徳川家康が伏見に銀座を設けたことなどで伏見は経済的に発展した。まず伏見田町にできた遊郭は京街道と大津街道の分岐点あたりの開墾地撞木町(しゅもくちょう)に移り、その後そこには遊郭に加え芝居小屋、土産物屋が軒を連ねたという。特に元禄のころにはその最盛期を迎え、「大石良雄は足しげく当地に通い、討ち入りの密議を交わしただろう」と撞木町遊郭跡の石碑には書かれている。さらに町内には「大石良雄遊興之地」と刻んだ別の石柱もあり、大石が作ったと伝わる天神さんの木像が残る。山科からここまでは一力に行く半分の距離にもならないし、高い祇園より安い伏見を選んだと考える方が理にかなう。

なお第3回で触れた京都3大ストリップ劇場の一つ伏見ミュージックはまさにこのあたりにあったのだ。伏見ミュージックを楽しむことは忠臣蔵の大石良雄を追体験することができたのだ。超真面目な学生時代を京都で過ごした当時の私には思い及ばないことだったのだが。

大石神社は岩屋寺の横道から2,3分も歩いていくとその境内にたどり着く。もちろん岩屋寺の駐車場から車を走らせて1分もしないうちに神社の駐車場にやってくることもできる。大石神社は赤穂にもあってそこの祭神は大石良雄はじめ四十七士と箕面ゆかりの萱野三平の48神である。大正元年に社殿はできている。

一方山科の大石神社は昭和10年に大石良雄を祭神として大石隠棲の地に創建された。主君の仇討を立派に果たした祭神にあやかり大願成就の願いがかなうと信仰を集めているという。境内には大石桜とよばれる枝垂桜があり、宝物殿もあるがまあ時間もないのでスルーしてもいいだろう。

忘れてはいけないことは毎年1214日に行われる山科義士祭りだ。昭和49年から始まり、山科区民総出で盛り上がる祭りで、今年は第41回になる。一番のイベントは「義士行列」で毘沙門堂を出発して6qの道のりを練り歩き、岩屋寺を経て、最終目的地がこの大石神社なのである。

討入り当時を再現する 「義士行列」は山科全域より四十七士が選ばれ、大石内蔵助をはじめとする表門隊、裏門隊、また、幼稚園児による四十七義士、遥泉院をはじめとする女人列、祇園一力亭でのようすを再現する大石内蔵助、元禄女人列、義士旗、音楽隊、そして清水一学など総勢三百人の奉仕による大行列が山科を行進し最終目的地の大石神社に到着すると案内書には記されている。

大石内蔵助たちが「義士」といわれ「テロリスト」とは言われないのは、老獪狡猾な上司の吉良上野介から受けたいじめ、嫌がらせ、今風にいうとパワハラに耐えに耐えた主君浅野内匠頭がやむに已まれずやってしまった刃傷沙汰を喧嘩両成敗ではなく浅野家だけが一方的に責を負わされたことに異議を唱えることが武士らしい振る舞いだと日本人には認知されているからだ。

我々がこう考えてしまうのはさっきのお茶屋通いの話と同様、講談や芝居のお話が刷り込まれているせいなのだ。この考えに異議を唱える人たちもいる。日本医事新報にある精神科医が「浅野内匠頭は統合失調症だった」という病跡学の論文を載せていた。彼の一連の行動は幻覚妄想に操られたものだというのだ。また清水義範(上野介が領地とした三河の出身)の小説によると上野介は当時軽度認知症になっていたという。

成程軽度認知症の上司と統合失調症の部下の間ではこのように痛ましい事件が起こっても仕方なかった。互いの認知機能がともにうまく働かないのだから。上野介の御咎めなしは問題なく、内匠頭は蟄居し治療に励み、代わりの者を藩主に立てるとすれば、見事な裁きとなった訳だが、まあこれは江戸時代には望むべくもないことだ。

さあ、義士行列の出発点の毘沙門堂を目指そう。毘沙門堂の近くの道路は狭く、オフシーズンでない限り車でのアクセスは避けた方が無難である。山科駅の近くには大きな駐車場があるのでそこに車を停めて歩いていくのがお勧めコース。

途中瑞光院という義士ゆかりの寺院がある。義士行列出発に先立ち大石良雄役のひとが参拝することになっている寺だ。内匠頭、大石良雄ら四十六士の墓、遺髪塔、大石良雄の愛した老梅木、さらには見事な枝垂桜がある。

そこからまっすぐ北に行くとほどなく毘沙門堂門跡の石碑があり、勅使門に続くまっすぐな石段がある。両脇にはモミジがあり、40年前の12月初旬紅葉の名所などとはまったく知らずに疏水沿いを歩いてきてここの光景を見た時、その紅葉の美しさにびっくりし、今までで一番美しいモミジだと感動したものだ。そこで連れの女性(今はわが女房になっている)をその紅葉の前に立たせて写真を撮ったのだが、今回懐かしくて古いアルバムを引っ張り出して見てみると、私の記憶の中の鮮やかな色は失われ、セピア色になってしまっているのだ。実は10年ほど前にも毘沙門堂を再訪したのだが、勅使門に続く石段の散紅葉は美しかった。だがその30年前に感動したほどの美しさを紅葉自体は見せてくれなかった。これは仕方のないことなのだろう。さて連れの女性が当時からそして今も、鮮やかな色なのかセピア色なのかは敢えて言及しないでおく。

そうは言うものの境内は広く、モミジはまだまだあるし、春の桜もJR東海の「そうだ京都、行こう。」キャンペーンで秋のモミジ同様取り上げられていて、やって来たかいのある所だ。本堂、唐門、仁王門は江戸時代の華麗な建築装飾を持ち、宸殿、霊殿は御所から移築したもので、現在は天台宗五箇室門跡の一つだと格式の高さを誇っている。

毘沙門堂の正式名称は出雲寺である。その歴史は古く、寺自体が波瀾万丈の歴史を刻んできている。遠く奈良時代文武天皇の勅願でかの行基によって下鴨神社の西、賀茂川の対岸あたりの出雲路に立てられたのでその名がある。その後平安時代後期には荒廃したが、鎌倉時代に平家ゆかりの寺も含めていくつかの寺を集めて合併し再興したものの、応仁の乱をはじめ幾多の戦乱でまたも荒廃していたのだ。江戸時代に入って、この山科の地に移り門跡寺院として再復興して現在に至るという。

毘沙門堂の通称は本尊が毘沙門天像であるからなのだが、その像は天台宗の開祖最澄が比叡山根本中堂に祀られる薬師如来を彫ったその余材で自作したものと伝えられている。

いろいろ厳しい状況の中でもどっこい生きてきてきたこと、ご本尊が余り木で作られたもの、すなわちB級の存在だったことって、本当に親しみのもてるお寺なのだ。

さあ時間があれば、南に下がって旧東海道まで出たところで山科駅の反対方向に少し行くと山科地蔵徳林庵やってくる。六地蔵めぐりの一つであり、東海道の入り口に位置していた。地蔵堂には小野篁作といわれる地蔵尊がある。地蔵堂の裏には6体のわらべ地蔵が並んでいて、その右端の地蔵は琵琶を持っているという。なぜ琵琶を持っているのだろうか。

人康親王(さねやすしんのう)の供養塔もあることがその答えだろう。人康親王は仁明天皇の第四皇子で病気により失明し、この辺りに隠棲しており、この辺りの地名を「四ノ宮」というのは、「第四皇子」に由来するという。 琵琶の名手でもあり、「琵琶法師の祖」とか「盲人・座頭の祖神」とか崇められ、その霊を慰めるために琵琶法師が毎年供養との前に集まり、琵琶を演奏し親王の霊を慰めたという。ここは障害者の自立の貴重な一里塚でもあるのだ。

さあ今日の旅の締めくくりは、赤穂義士つながりで、箕面にある萱野三平記念館だ。忠か孝かで悩み27歳の若さで「晴れゆくや 日ごろ心の 花曇り」の辞世の句を残した萱野三平を偲ぼう。500mほど南に行き市立病院の直下といっていいほどの千里川のほとりの墓地に萱野三平の墓はある。


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