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続D級京都観光案内 13

安井金比羅宮へ京都市一古い狛犬に会いに行こう

小寺慶昭氏の「京都狛犬巡り」(ナカニシヤ出版)によると、京都市で一番古い狛犬は、安井金比羅宮にあるという。早速その狛犬に会いに行くことにしよう。

安井金比羅宮(やすいこんぴらぐう)は、東山区の中部、建仁寺の東にある神社で、「悪い縁を切り、良縁を結ぶ」ご利益があると信仰されている。すなわちパワースポットとして、特に若い女性たちに人気のある神社である。

最寄りのバス停は祇園石段下から南に一つ下がった東山安井であるから、阪急「河原町」あるいは京阪「祇園四条」からの徒歩圏内にある。このあたり、車は渋滞するし、駐車場は見つけにくいしと車で行くのを躊躇されるところだが、オフシーズンであれば神社の駐車場が案外とめやすい。東山安井のもう一つ南の交差点をすぐ西に入ると神社の駐車場の出入り口がある。駐車券を社務所に持っていくと30分無料となる。

東鳥居は東大路通りに面してある。鳥居の貫の下には「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」の大きな横断幕が掲げられている。言ってみればここが正門なのだろう。「安井金比羅宮」の立派な石の社名標が立ち、由緒書の駒札がある。

「祭神として崇徳天皇、大物主神、源頼政の三神を祀る。」「保元の乱で敗れて讃岐の国(に流されそこ)で崩御した崇徳上皇の霊を慰めるため、建治年間(12751277)に大円法師が建立した光明院観勝寺が起こりといわれる。」「その後応仁の兵火で観勝寺は荒廃し、元禄8年、太秦安井にあった蓮華光院が当地に移建された。」「その鎮守として崇徳天皇に加えて、(崇徳上皇が崩御前参篭した讃岐の金毘羅宮の金毘羅大権現の祭神である)大物主神を勧請し、さらに源頼政を祀ったことから、安井の金比羅さんの名で知られるようになった。」

この駒札の記述だけでは、なぜこの神社が「悪縁を切り良縁を結ぶ祈願所」なのかちょっとわかりにくい。それには崇徳天皇の数奇な生涯を知らねばならない。事の始まりはわが国で初めて院政を始めた白河法皇にある。43年間も政治の実権を握り続け、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなはぬもの」と嘆いたといわれるだけに、何もかも好き放題にやってのけた人だったのだ。

崇徳天皇は父鳥羽天皇、母待賢門院として生まれたが、世間では鳥羽天皇の祖父の白河法皇の子ではないかとうわさされた。鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」といって嫌い、白河法皇がなくなるとすぐに、崇徳天皇を廃し(上皇にし)美福門院の生んだ(異母弟の)近衛天皇を即位させた。病弱の近衛天皇が早逝し、次期天皇は崇徳上皇の第一皇子がなると思われたが、同母弟の後白河天皇が皇太子を経ずに即位した。こうしたことが崇徳上皇と後白河天皇との間の争いになり、摂関家の藤原忠通と藤原頼長の兄弟の争いも加わり、それぞれの勢力が軍事部隊として武士集団を取り込み保元の乱は起こったのである。

戦いに敗れ恭順の意を表したにもかかわらず、崇徳上皇は讃岐の国に流され、金毘羅宮に参篭するなどしたが都には帰れず失意のうちに崩御した。

その後、都では後白河法皇や藤原忠通に近い人々が相次いで死去し、疫病流行や大火が相次ぎ、延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こる。後白河法皇は怨霊鎮魂のため崇徳上皇の復権を図らざるを得なかった。

江戸時代には智恵者が出て、崇徳上皇の怨霊伝説をうまく商業ベースに乗せようとしたのだろう。主祭神の崇徳天皇が、讃岐の金刀比羅宮で一切の欲を断ち参籠(おこもり)されたことから、断ち物の祈願所として信仰され、男女の縁、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁が切れ、良縁に結ばれるご利益があるとし、縁切り縁結びの碑(いし)の穴くぐりの儀式を考え出したようだ。

ようやく駒札の長い注釈を終えることができた。京都市一古い狛犬探しを忘れないでおこう。東鳥居前には立派な狛犬一対がある。安政4年の寄進で、「石工丸屋市兵衛」と刻まれている(と小寺慶昭氏の書には記されている)。右の阿像には角はなく、左の吽像には角がある。見事に「獅子・狛犬」の形式を踏んでいる。講談社の「日本全史」よれば安政4年には駐日アメリカ総領事ハリスと下田奉行との間で下田協約が締結されている。

参道は駐車場を挟んで、西に続く。少し行くと南からの参道に合流する。南参道の鳥居前には狛犬がいる。私には読み取れなかったが、小寺氏によると、天保15年の寄進で、「京一メ町石工 伊兵ヱ」と刻まれているという。「日本全史」によれば、天保15年は改革派の旗手、水戸藩主徳川斉昭とそのブレーン藤田東湖が幕府により謹慎を命じられた年である。東鳥居の狛犬より少し小ぶりで威厳にはやや欠けるが、右の阿像には角がなく、左の吽像には(かけているが)角がある。

ただ驚くのは狛犬の右横にある石の社名標である。「郷社 安井神社」とあるのだ。江戸時代蓮華光院であったものは明治政府による神仏分離令により、寺院部分は大覚寺に移り、神社部分だけが残り、安井神社とされたのだ。その名残がこの石碑で、南参道に残っている。「安井金比羅宮」は第二次世界大戦後の呼称である。

東参道を突き当たったところに、手水がある。その手前に絵馬の道という石碑がある。たくさんの絵馬が参道沿いに掛けられている。桂米朝上方落語研究会が長らく当社で行われていた関係で桂米朝はじめ一門の桂枝雀、(襲名前の)桂小米、(ざこば襲名前の)桂朝丸、さらには夢路いとし、喜味こいし、キダ・タロー、小松左京、越路吹雪らの奉納絵馬が大きな絵馬型の額に入って飾られている。食べ物屋さんの壁にタレントさんの色紙が貼ってあるのを見る感覚で楽しめる。

かつて、神霊は馬に乗って降臨されるという信仰から、神事や御祈願の時には、生馬献上の風習があったが、生馬を奉納するのは大変なので、土馬・木馬さらにそれに変わる絵馬が生まれたといわれている。こうした日本独特の信仰絵画である絵馬を保存・展示するため、古い絵馬堂の建築美をなるべく損なうことなく改築して、昭和51年に開館した日本初の絵馬ギャラリーが金比羅絵馬館である。今から参拝する本殿の向かいに立っているのだが、残念ながら現在改築中で休館している。

手水から本殿に向かうと、社務所の向かい側に「縁切り縁結びの碑(いし)」がある。高さ1.5m、幅3mの絵馬のように5角形の巨石で、中央下部には一人がやっと通り抜けられるほどの円形の穴がある。

祈願の方法は次のようにせよとある。『まずご本殿にご参拝下さい。次に(碑の横に置いてある)「形代」(身代わりのお札)に切りたい縁・結びたい縁などの願い事を書き、「形代」を持って願い事を念じながら碑の表から裏へ穴をくぐります。これでまず悪縁を切り、次に裏から表へくぐって良縁を結びます。そして最後に「形代」を碑に貼って下さい。』

形代がどんどん貼られ、碑は石からできていると分からず白い形代で覆われた張りぼてのようにも見える。人気のパワースポットだから、穴くぐりを待つ長い行列ができる。37℃越えという京都の暑さの中でも常時56人の待ち行列ができていた。以前観光シーズの時には2,30人の待ち行列ができていて驚いたものだ。

「男女の縁、病気、酒、煙草、賭事など、全ての悪縁が切れ、良縁に結ばれる」ご利益があるというが、病気になるのは悪縁があるからではないし、病気に対してお前との縁は切りたいとだれでも思うけれど残念ながら病気とは付き合わないわけにはいかないのだ。酒、煙草、賭事は依存症だ。縁を切って頂戴と願えばそれがかなうならそれはたやすいことなのだ。残念ながらそうはうまくいかないことは、精神科医としていやというほど思い知らされている。

でもひっきりなしにこの穴をくぐっている。考え出した人は智恵者としか言いようがないのだ。

「縁切り縁結びの碑」から本殿に進む少し手前を、奥にそれていくと金比羅宮の遥拝所がある。やや小ぶりの狛犬が一対坐っている。寄進年代は不明だがなかなか良い阿吽像だ。天井には方位盤があり、東西南北に、象頭山の方位が示されている。象頭山は金比羅大権現が鎮座するところである。

参道に戻ると拝殿本殿がある。さらに進むと数多くの末社がある。まっすぐ進んで左手に安井天満宮がある。鮮やかの朱色で彩られている。祭神は菅原道真である。日本三大怨霊は、平将門、菅原道真そして崇徳天皇とされている。まさにこの地に祀られるのにふさわしい末社である。この正面にいる狛犬こそ、今日わざわざ会いに来た狛犬である。小寺慶昭氏も書いている。「『どれほど素晴らしい狛犬だろうか』と期待されていた方は失望されるかもしれない。第一印象は神経質そうな顔である。堂々と神社を守り、邪を防ぐというより、邪が来ないようひたすら願っているような、ひ弱な感じだ。」学者肌の小寺氏にしてはちょっと言い過ぎではないかという書き方だが、確かにえっ、これが京都市一古い狛犬?と私も思ってしまった。

それにはめげずもうちょっと観察してみよう。阿形は体長66㎝、頭に角がないので獅子である。歯は犬歯ばかり11本である。肉食だと小寺氏は推測している。雄であると断定されている。失礼ながら股間を覗いて観察されたのだろう。医者のくせに私はようしなかった。吽形は体長70㎝、歯は3本少なく、角があり狛犬だと分かる。性別は不明だとある。

台座には、明和4年寄進 石工 和泉屋傳九郎とある。明和4年といえば、尊王論者の山県大弐が謀反の罪で死罪に処せられている。

安井天満宮のほかにもいくつも末社があり、どの末社もよく手入れが行き届いている。八大力尊社、厳島社、三玉稲荷社、三社(秋葉社、人丸社、囁社(ささやきしゃ))である。

安井天満宮と八大力尊社の間に、「久志塚」すなわち櫛塚がある。9月第4月曜日に櫛まつりが行われる。「久志塚」前において、使い古した櫛や折れた櫛をお祓いし感謝する神事が行われ、その後、古代から現代の舞妓まで地髪で結い上げた伝統の髪型と各時代の衣装をまとった約40名の女性達による時代風俗行列が境内を出発し、祇園界隈を練り歩く。

さて実はもう1対、興味あふれる狛犬が絵馬館隣の土蔵・坪井館前にいる。小寺氏は細かな観察を参道狛犬に限定している。土蔵は神社や末社ではない。だから研究観察の対象から外されている。台座がないため寄進者・石工の情報が得られないのが研究対象から外さざるをないのだ。

小寺先生の力を借りずにこの狛犬を検討してみよう。まず摩耗している。明和年間より古いに違いない。小型であるがそれを差し引いても、狛犬・獅子というより子猫みたいだ。とてもかわいいのだが、私の観察ではこの程度で止まってしまう。

狛犬学は奥が深い。裏を返せば学問としてはまだまだ伸びしろがある。どうです、あなたも狛犬研究の罠にはまりませんか。

 


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