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続D級京都観光案内 6

挫折者の文化活動を訪ねて

人生に挫折はつきものである。挫折したものの財力があるものはそのエネルギーを文化に向ける。私たちはその挫折者たちからの文化という贈り物を受けているのだ。

 南北朝時代が終わると朝廷は飾り物で武家政治が続くのだが、群雄割拠の戦国時代になると飾り物の朝廷をうまく利用して自分たちの箔付けにしようとするものが現れる。織田信長であり、豊臣秀吉である。徳川幕府ができると朝廷はあくまで飾り物であることを強いるが、抗う人たちも出てくる。

 この流れの中で生み出された、庭園、離宮、寺院などの建造物を見て行こう。

 八条宮智仁(としひと)親王は正親町天皇の孫で、皇位継承者の誠仁親王(後の後陽成天皇)の第六皇子である。どう転んでも皇位につくことはないので関白豊臣秀吉の猶子となった。将来関白職が約束されていたのですね。ところが豊臣秀吉に鶴松という実子ができたので、親子関係は解約となり、ただの人になってしまった。それじゃかわいそうということで、秀吉の奏請により八条宮家が創設され、その初代についたのである。

 1620年家領の下桂村に別荘地の造営に着手している。これが桂離宮である。親王の死後、離宮は手入れがされず荒廃するが、親王の第1皇子の智忠親王が宮家2代目となるとともに桂離宮の再興につとめ、現在の姿を残してくれているのである。

 智忠親王は1638年、長岡天満宮の前庭に八条が池を築造した。天王山から愛宕山まで、悠々とした西山を借景とし、天満宮の前庭として社観を高めている。本来の目的は灌漑用のため池であった。大鳥居から境内に渡される石橋の両側にはぎっしりとキリシマツツジが植えられており、4月下旬の満開の頃には真っ赤に染まり、その鮮やかさは驚くばかりだ。私が小学生のころ隣町に住んでいたからここは遠足や家族の小旅行の定番だった。その頃キリシマツツジを見て受けた感動がこの年齢になっても何度も何度も新たになることはうれしいことだ。ただ子供の私が一番うらやましく思ったのは、池のほとりに浮かぶように並んでいる壁が褐色の数寄屋造りの何軒もの建物で、その中ではきっと高貴な方かお金持ちが子供には想像できないようなおいしいものを食べているに違いないと思うのだった。

 現在も錦水亭がこの座敷を持っているようだが、どのくらいお金を出せばここで食事がとれるのか残念ながら私は知らない。きっときっと高いのだろう。

 参道から水上橋もかけられており、そこから池の周囲全体を眺めることもでき、ハス、スイレン、アヤメ、花ショウブ、キショウブ、カキツバタなどの水生植物を楽しむことができる。

 智仁親王の長兄は後陽成天皇である。後陽成天皇は秀吉の招きに応じて2度も聚楽第に御成りになっている。後陽成天皇は秀吉に懐柔されてしまっていたのだ。後陽成天皇は後継天皇として弟の智仁親王を当てたかったみたいだが関が原の戦いに勝ち天下を取った徳川家康の反対にあい実現せず、家康の介入を飲み第3皇子に譲位せざるを得なくなった。その第3皇子が後水尾天皇である。

 こうやって徳川家の意向で天皇になることができたのだが、それこそ朝廷を徳川家の完全統制下におくことを目指すものだった。禁中並公家諸法度が公布され、天皇と朝廷は京都所司代の監視下に置かれ、政治的権限は全くなくなった。天皇の私生活もコントロールしようと秀忠の娘を中宮として入内させた。東福門院である。天皇には寵愛する女官とその子供たちもいたが、放逐されている。さらに天皇が従来通り高僧に対して紫衣の着用を認める勅許を出したことに対し、幕府が勅許を認めず高僧から紫衣を剝奪するという紫衣事件も起こった。天皇の権威を失墜させる出来事が度重なる。もう怒ってしまった天皇は幕府にも相談せず娘の明生天皇に譲位し、自身は院政を敷くことになる。

 後水尾上皇となり京都御苑内の仙洞御所に移り住む。庭は小堀遠州により作られたが、後に上皇みずからが作庭している。ただこの庭には飽き足らず、理想の離宮を求めて、長谷御殿、岩倉御殿をたびたび訪れた後、比叡山を借景とした庭園を持つ幡枝離宮にたどり着く。景色としての比叡山が好きだったんですね。

 だが理想の山荘をまだまだ追求する上皇は修学院村にその適地を見出し、3年かけて修学院離宮の造営に取り組む。従兄弟の智忠親王が先行造営していた桂離宮にも行幸し、互いに刺激し合いそれぞれが究極の理想の庭園づくりに励んでいる。桂離宮の御幸門、御幸道はこの時の行幸に由来する。

 修学院離宮が完成することにより、幡枝離宮は近衛家に与えられ、その後霊元天皇が乳母・円光院の願いにより御殿と庭園を寺院とした。それが圓通寺である。圓通寺庭園の三十数個の置石の配置は後水尾天皇自ら決めたものだ。

 修学院村にあった産土神をまつる神社は立ち退きを余儀なくされたが、霊元天皇により少し離れた鷺森の地が与えられ鷺森神社として今に続いている。

 霊元天皇は後水尾天皇の第十九皇子であり、養母は東福門院である。幕府の介入に嫌気がさして退位した後水尾天皇の4代後の天皇であるが、先の3代の天皇(すべて後水尾天皇の皇子・皇女である)とは違って、父譲りの権勢欲が強く、幕府に対してしばしば抵抗を示した。退位後は父同様院政を敷き、長く朝廷での実権を握っていた。したがって修学院離宮造営により生じた問題に対して顔を出してくるのだ。鷺森神社には2度行幸し歌を作っているが、どうも幕府との抗争を憂いものとしているように思うのは私の深読みだろうか。

 曼殊院は伝教大師最澄の草創に始まり、比叡山西塔、北山を経て御所の北に移っていた。八条宮智仁親王の次男は八条宮家を継ぐことができないため後水尾天皇の猶子となり、良尚法親王と仏門に入るとともに天台座主となった。修学院離宮の造営中の1656年に、良尚法親王により修学院離宮の隣地ともいえる一乗寺の現在地に移された。庭園、建築共にわびさびに生きたといわれる親王の識見、創意によるところが多い。二人の父、智仁親王と後水尾上皇の才覚と影響を強く受けており、兄・智忠親王とも相通じるものがあり、曼殊院が「小さな桂離宮」と呼ばれるゆえんである。

 曼殊院から少し南に下がったところに詩仙堂はある。詩仙堂は徳川家の家臣石川丈山が隠居のため作った山荘である。でこぼこの土地に建てられた住居を意味する凹凸窠(おうとつか)が正式名称であり、寺院になったのは昭和41年のことである。

 石川丈山は徳川家康の有能な近侍であり、33歳のとき、大坂夏の陣に参加し、一番乗りで敵の大将を討ち取る功績をあげている。この時、徳川家康により「先陣争い」を厳しく禁じられていたため、褒美を与えられるどころか逆に蟄居の処分を受けてしまった。当然武士なんてあほらしいと思いますよね。そこで武士を辞めて、文化人という形で隠居をする。59歳の時この山荘を造営し90歳の天寿を全うするまで清貧の中で聖賢の教えを守り楽しんだ。

 石川丈山は作庭の技術にも秀でており、上高野・蓮華寺、京田辺市の酬恩庵(一休寺)、東本願寺の枳殻邸(渉成園)の作庭に関わっている。「鹿おどし」で知られる「添水(そうず)」は丈山の創案といわれている。鹿やイノシシの侵入を防ぐために、静寂中に大きな音を立てるこの仕掛けは、有能な武士を自ら辞めた男の思いを象徴するものであるかもしれない。多くの観光客の喧騒の中でこの添水の一瞬の響きは観光客の騒々しさへの一喝かもしれないのだ。

 


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